ホーム>世界の学校こぼれ話 第9回 教育様式① その三

世界の学校こぼれ話 二宮 皓
AkiraNinomiya

【PROFILE】二宮 皓(にのみや・あきら)
1945年、鳥取県生まれ。広島大学教育学部卒。広島大学大学院教育学研究科博士課程中退。大学院在学中米国フルブライト留学(コネチカット大学)。文科省大臣官房調査課、広島大学教授、同大学留学生センター長・教育開発国際協力研究センター長・理事・副学長、放送大学理事・副学長、比治山大学学長などを歴任。専門は比較・国際教育学。著書に『世界の学校』(学事出版)、『21世紀の教育と学校』(協同出版)、『こんなに違う!世界の国語教科書』(監修、メディアファクトリー新書)、『こんなに厳しい!世界の校則』(監修、メディアファクトリー新書)など。テレビ『世界一受けたい授業』への出演なども。

このシリーズは、協同出版発行の月刊『教職課程』に2009 年9月号から2010年8月号までに連載した「放課後の学び舎」を採録したものです。

第9回

教育様式① その三

体 罰

第二のモデルは「体罰」です。親にとって子どもをどのように育てるかは、いずれの時代、いずれの社会にあっても重大な共通の悩みでした。親が子どもに「力(暴力)」をもって躾けることは、十二銅板法(父権の規定)以来、親の権利として社会で容認されてきました。これが、身体的懲罰(Physical/Corporal Punishment)であり、体罰と訳されるものです。親権としての親の懲戒権・体罰権は制限されることなく、むしろ親の義務として社会的に受容・容認されてきたのが私たちの歴史です。そうした状況の中で、子ども虐待、子どもの人権侵害という観点から、親の権能を制限すべきであるとする動きも盛んになり、周知の通り、児童権利条約も締結・批准されるようになりました。虐待も医師などの通報制度により親権の制限や剥奪さえもが真剣に議論される時代になっています。


左からアメリカの生徒規則【生徒手帳】、タイの生徒規則【生徒手帳】、中国の生徒守則

 

親の懲戒権・体罰権は、イギリスなどの判例法の中で学校の教師に委譲され。学校の中での「親代わり」としての教師の懲戒権(体罰を含む)を支持してきました。教師の体罰は慣習法の中で容認されてきたのです。しかし19 世紀の終わりから20 世紀には実定法でもって明確に教師の懲戒権の中の「体罰」を制限・禁止する国も増えてきます。日本では明治12 年の教育令から今日まで一貫して学校における教師による体罰は禁止されています。戦前の学校でも体罰は禁止されていたので誤解ないように

体罰事件が絶えないし、体罰でもって懲戒処分になる教員も依然として少なくありません。問題は、明白に体罰であるといえる懲戒行為のみならず、「生徒が苦痛を感じる」懲戒行為はすべて体罰である、という考え方にあります。今や体罰に境界線はありません。身体的のみならず精神的「苦痛」を感じさせるような懲戒行為(物理的力を伴う行為や言葉による行為)はすべて体罰とみなされることになります(生徒が苦痛を感じるのであって、教師が生徒が苦痛を感じているかどうかを判断して行うことではない)。体罰は程度問題ではなくなったともいえます。

そもそも体罰の背景には、キリスト教がもつ人間観(原罪思想など)に基づき、子育てに必要で有効な手段(「最後の手段・伝家の宝刀」ともいわれてきた)であり、子どもを矯正する手段として重宝されてきました。旧約聖書には「ムチの効用」を諭す「箴言(しんげん)」がたくさん記載されています。

学校における体罰は古くから続いてきた教育様式の典型です。英米諸国ではこうした体罰を長く容認してきた歴史があります。アメリカではパドルと呼ばれる体罰板があり、イギリスやニュージーランドなどの学校にはケーンと呼ばれる「籐鞭(とうむち)」が校長室にありました。映画『小さな恋のメロディ』には校長が体罰を行うシーンが出てきます。


ケーンを持つ校長

 

体罰という教育様式はキリスト教の精神文化に代表されるような人間観や教育観による、子どもを「矯正する」という信念に基づいて展開されてきたもののようです。世界の学校から事実行為としての身体的懲罰(体罰)はなくなるのでしょうか。法的・制度的には解決されたと見える体罰も、実体的にはまだ整理できていない未解決の問題であるともいえます。その背後には人類の誕生以来の歴史的思想が横たわっています。体罰も古くて新しい問題であるといっても過言ではないでしょう。