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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第2回

道 徳

良心に欠ける日本人

わが国には昔から「旅の恥はかき捨て」ということわざがある。旅先では、知っている人がまわりにいないので、どんなことをしても恥辱にはならないという意味である。現代のように人間の地域間移動がさかんな時代においては、旅先で知人に出くわすことは珍しくはないであろうが、それでもお互いに旅先のことだからと、常軌を逸した行いに走ることが多い。

日本人は、普段の生活空間、すなわちウチ空間に居るときは規範に則した行動をとる。しかし、一歩その空間を踏み越えソト空間に出ると“のり”を逸してしまう。さる著名な日本人A氏からこんな体験談を聞いたことがある。アメリカでハイウェイをドライブしていたとき、前方を走っていた車がガードレールにぶつかり転覆するという事故に遭遇した。そこで車を止めて、現場にかけつけた。しかし、現場に到着してから恥ずかしい思いをして車にすぐにもどってしまった。こういう話である。なぜ車にすぐにもどってしまったのだろうか。事故現場にはほかにも大勢の人がかけつけていた。それはアメリカ人であったが、その人たちは薬箱や毛布などを持ってきていた。ほかの人たちは、事故を起こした人を助けようとしてかけつけていたのである。見物気分で手ぶらでかけつけたA氏はそれをみて恥ずかしくなったというわけである。

おそらくA氏も事故を起こした人が自分の身内であれば、つまりウチ空間の人であれば、たとえ事故現場がソト空間であっても見物気分でかけつけるなどということはなかったであろう。しかし、事故を起こしたのは自分にとって他人であった。すなわち、ソト空間の人間であった。というよりも、ソト空間の人間として意識された人間であったといったほうがよいであろう。

ルース・ベネディクトは『菊と刀』において、西欧の文化を罪の文化、日本の文化を恥の文化であると特徴づけた。西欧においては、人々は自分の心のなかに内在化した神の声にしたがって行動しようとする。良心とはそのように心に内在化された神である。西欧人はこの神の命令や期待にそうことができなかったとき罪の意識を感じる。いっぽう、日本人は世間の目や外聞を意識して行動しようとする。世間の原型は伝統的な生活共同体であるムラである。それはウチ空間であり、お互いに顔も素性も熟知している者の世界である。

日本人が旅先で“のり”にしたがった行動をとらないのは、そこには世間がないからである。良心は自分の心のなかにあるものであるから、神を内在化した人間は、地球上のどこに移動しようが、それにしたがって行動しようとする。しかし、世間は旅先にまではついてこない。世間は人間の外にあるもので、旅にまでついてくることはない。人間に内在化された行動の基準としての道徳は心のなかに「ある」道徳であるのに対して、世間が世間内の人間の行動を拘束する道徳は、人間が移動することによっていつでも手放すことができるという意味で「持つ」道徳だといえるであろう。

事故現場にアメリカ人が薬箱や毛布を持ってかけつけたのは、良心にしたがって行動しようとしたからであろう。日本人であるA氏が手ぶらで現場にかけつけたのは、事故を起こした人が自分の世間内の人ではなかったからであろう。わが国では親が子どもをしつけるときに口に出すことばは、「みっともない」「人様に笑われる」「人からうしろ指をさされる」といったように、世間や外見を意識したものである。日本にも神はある。しかし、西欧では人間が神に奉仕するのに対して、日本では神が人間に奉仕することが期待されている。「神頼み」ということばはそのことを示している。西欧の神は一つであるのに対して日本の神が八百万(やおよろず)であるのはそのためであろう。日本の神は「お守り」として人間が「持つ」存在である。

国際化社会、ボーダーレス社会といわれる現代社会においては、地球全体をウチ空間にすべく、日本はこのような「持つ」道徳を「ある」道徳に転換しなければなるまい。

もっとも、最近ドイツから帰国した同僚は、滞在していたホテルが火事になり、地上に飛び下り危うく助かるという経験をしたが、その際、地上の見物人はだれも手をさしのべてくれなかったという。昨今では、「ある」道徳は西欧社会の課題なのでもあろう。