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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第3回

評 価

「客観的」を過信しない

最近は入試に面接を取り入れることが多くなった。わたしの大学では推薦入学で面接を行っているが、こんなことが問題となったことがある。複数の面接官がそれぞれ別々の部屋で面接を行ったのであるが、評価点が部屋によって大きく異なってしまい、合格者が一人も出ない部屋が生まれたことが問題となったのである。

結局はこのような差を調整せずに終わったが、調整すべきという意見も強かった。しかし、いずれにしても、大部分は、評価に大きな差が生まれることを問題視する点で共通していた。大部分の人は、口には出さないが、心のなかでは面接官の評価が完全に一致することを理想であると考えているようであった。わたしが疑問視したいのは、このような考えかたである。

もし評価に面接者による差がないことが理想であるなら、面接は一人で行うことが理想だということになる。しかし、面接を複数の人間で行うのは、現実には面接者の評価眼が完全無欠ではないからだということになる。面接者の目に狂いがないと信頼できる場合には、一人にまかせてしまってよいということになる。

面接における評価が妥当であるかどうかを学力試験と対照してみたらどうだという意見も出た。しかし、もし面接の評価が学力試験の結果と正の相関をすることをもって、面接における評価の妥当性の根拠とするというのであれば、そのような面接を行うこと自体に意味がなくなってしまう。面接による評価には差が出ることがむしろ望ましいのではないだろうか。学力試験のほうは採点者によって結果が異なることは問題であろう。二人の人間が採点して違った結果が出たとすれば、どちらかが、あるいは両方が、採点のしかたを 間違えているからであろう。しかし、面接における評価に差が生まれた場合に、評価のしかたに間違いがあったからだと断定するのはおかしいのではないだろうか。

人間の評価方法には二つある。一つはだれが行っても同じ結果が出るような評価の観点を決めて点数化する客観的評価であり、もう一つは、評価者が自分の目で被評価者を全体として評価する主観的評価である。古い話になるが、八頭身美人ということばがはやったことがある。八頭身とは身長が頭部の長さの八倍であることであり、それが女性の最も美しいスタイルだというのである。ファッションモデルの伊東絹子さんが、昭和28 年、「ミスユニバースコンテスト」で世界第3位になり、その評価基準が八頭身であったということから、これが美人であるかどうかを決める尺度と考えられるようになったのであるが、これを美人のただ一つの基準だとすれば、物差しがあり、手が震えずに測り方さえ違えなければ、美人であるか否かを判定することができることになる。これは客観的評価の典型であり、美の程度は数値で表すことができる。被評価者は何点の美人というように、美人としての点数を「持つ」ことができる。

しかし、男性が女性を美しいと思うのは、普通、そのような測定によるわけではない。直感によって全体を全体として評価しているのである。このような主観的評価は数値では表せない。被評価者は点数を「持つ」ことができない。それぞれが美人として「ある」のである。客観的な評価による美人は、各人が「持つ」点数により序列化することができる。最高の美人は一人に限定される。一方、直感で全体を全体として把握する主観的評価による美人は、それぞれが最高の美人として「ある」ことができる。このように、評価には「持つ」評価と「ある」評価とがあり、われわれは時に応じて、両者を使い分けているが、現代においては、「持つ」評価が「ある」評価を凌駕してしまっている。恋人選びなら、物差しを使おうと一目惚れしようと個人の勝手である。しかし、入学試験のような、人間の社会的選抜にかかわる評価では、どちらでもよいというわけにはいかない。

「持つ」評価も必要であろう。しかし、面接のような「ある」評価であるべきものをも、「持つ」評価によってその妥当性を評価しようという精神は、物質的豊かさを可能にしてくれた自然科学を過信する時代精神として問題にしなければならないのではないだろうか。