ホーム>ゆとりの学び ゆとりの文化 第4回

ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第4回

学 力

人間の生きかた、文化として考える

学力は学校教育において育てるべき能力として、国を越えて、また時代を越えて教育にかかわる者の重大な関心事となってきた。しかし、学力とは何か、ということになると、それは国によって、また時代によって同じではない。学力の中身は文化によって異なるといってよいであろう。

わが国は社会の近代化を西欧の知識や技術を学ぶことによって達成した。近代化へのテイクオフは幕末から明治にかけて行われたが、それは佐久間象山の「東洋道徳・西洋芸術」という考えかたにたつものであった。ここで「芸術」というのは技術的知識文明のことであり、「道徳」というのは主体的精神的な生きかたを意味している。

江戸時代以前における日本文化は和魂漢才であったとよくいわれるが、幕末から明治にかけての文化は和魂洋才であったということである。自分の心は失わずに、ものを受容しようとしたのである。たとえば、大木喬任が文部卿として学制の制定にあたってフランス学制を受容しようとしたときの態度がそうであった。大木は「翻訳を採用するならば全然翻訳の儘にすべく、他の意見を加えて変革せば事の宜しきを失与」」といっているが、それはあくまでも「西洋芸術」についてのものであった。明治10 年代のはじめごろまでのアメリカを中心とした外国の教科書や教育関係書の翻訳も、単なる語学の堪能者が無批判に原書を直訳して紹介するというふうであった。

留学についても幕末期における幕府、諸藩を母体とする海外留学生の派遣は東洋道徳・西洋芸術的発想にもとづいていた。留学生は帰国後、西洋芸術の紹介者としての役割を果たすことが期待され、実際に果たしたのである。西洋芸術の受容はまさに「心酔」あるいは「崇拝」であった。

しかし、当時の日本人にとって西洋芸術は「持つ」文化でしかなかった。西洋芸術の基盤にある思想を切り離した、ただ西洋に追いつくための「持つ」文化であった。「持つ」文化であるから、嫌いになれば容易に手離すこともできる文化であった。

現代においては、近代の超克の名のもとに西洋芸術への反省が生まれているが、それを「持つ」文化としてのみ受容しようとしてきたわが国では、西洋芸術の修正にばかり目が向けられ、その背後にある思想への着目が弱いように思われてならない。

このことはまさに学力の問題である。西洋芸術思想と切り離して「持つ」ためには、既成のものをあるがままに吸収する力が要求された。外国語の能力も西洋芸術に関する文献を読みこなす能力が求められた。それは知識受容型の学力であった。知識を受容し「持つ」ための学力であった。

いま、“新しい学力”の育成が学校教育の課題となっているが、これは、右のような「持つ」学力観を転換しようということであろう。しかし、教育界には何をいまさら“新しい”という形容をする必要があるのか、そこで考えられているようなことは、いままでの教育2の歴史のなかですでに取り組まれてきたことだ、といった反論が存在する。

確かに、生徒の主体性を尊重しなくてはならないとか批判的に考える力を育てなくてはならない、といったことはいいつくされているかもしれない。しかし、それが文化の問題として論じられることはどれだけあったであろうか。

いまわれわれにとって何よりも重要なことは、「道徳」という人間としての生きかたとのかかわりにおいて「芸術」の問題を考えることではないだろうか。「道徳」は文化である。われわれの内に「ある」文化である。重要なのは、「芸術」を「道徳」と切り離して「持つ」のではなく、「道徳」に根ざす「ある」文化としてとらえていくということである。

このことはいまある道徳を、伝統文化を尊重せよ、といった形で無批判に肯定し、そこから「芸術」を発生させろというのではない。「芸術」の反省の上に「道徳」の反省を加えることも必要であろう。そうでなくては「持つ」文化から「ある」文化への転換は望むべくもない。“新しい学力”もそのことによってはじめて“新しい”と呼ぶことができるであろう。