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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第7回

ディベート

「立場」での発言と官僚制化社会

最近、学校では国際的資質を養うという観点から、授業のなかでディベートをとりいれるところが多くみられる。ことばとしては、ディベートは単に「討論する」、「討議する」という意味をあらわす英語である。辞書ではディスカッションと同義だと出ている。

しかし、学校でいまはやりつつあるディベートは、そのような一般的な意味を超えて、討論の一つのタイプをあらわす和製英語になっているように思われる。すなわち、学校でいうディベートは、何人かの生徒を二つのグループに分け、特定のテーマについて、それぞれのグループを、賛成か反対かのいずれかの立場にたたせて討議させる形式を意味しているようである。自分が本当に賛成であるか反対であるかにかかわらず、どちらかのスタンスを、いってみれば強制的にとらせるわけである。このように自分の意見とは異なる立場から議論させることに積極的な意義があると考えられているようである。

たとえば、ある中学校の社会科の授業では、首都を東京からどこか別のところに移すべきかどうか、すなわち遷都論をテーマとするディベートが行われていたが、その場合にも遷都に本当に賛成か否かに無関係にディベートのための二つの対立集団がつくられていた。

はたして、このような形式のディベートは国際的資質の形成という観点から有効であろうか。本当は反対であるにもかかわらず、賛成の立場をあえてとらせるというのは、議論の前提のよしあしは別として、前提を正当化する論理的話術を身につけさせるということであろうが、重要なことは前提自体のよしあしを問うことではないだろうか。

ディベートは前提のよしあしをめぐって行われるものであるから、前提のよしあしを問題にしているのではあるが、重要視されているのは、自分のスタンスを正当化するための論理を相手に説得する能力のほうであって、前提そのものではないのである。

このような能力は現代の官僚制化した社会においては重要であろう。行政機関にかぎらず現代社会における組織は、それを構成している一人ひとりの人間は取りかえ自由の部品と化しているという意味で官僚制化している。これは特定の人間の恣意によって組織が左右されないようにするという意味では、マックス・ウェーバーがいうように合理的であろう。この合理を実現するには、組織のメンバーは、自分の属するセクションの立場を正当化しなくてはならない。人事異動で他のセクションに移れば、その新たなセクションの立場を正当化しなくてはならない。同じ組織でもセクションが違えば利害が対立することも多いであろうが、自分としては古巣のセクションの立場が正しいと思うということは、組織のなかにいるかぎりは、心のなかで思っても口に出してはいえないのが官僚制である。

阪神・淡路大震災では行政の対応が遅れたことが社会的に批判され、それに対して、行政の関係セクションの責任者は、それがやむをえなかった事情を説明していたが、「自分でもそう思います」と答えてしまっては、たちどころに左遷の憂き目にあうであろうことは必定であろう。

このような社会に生きていくためには、どのような立場にたたされても、自分を捨ててその立場を正当化する論理を「持つ」必要がある。ことばをかえていうならば、どのような役割でも演ずることができなくてはならないのである。

このように考えると、いま学校で導入されているディベートは、官僚制人間を養成し、「持つ」文化を強化するための教育の手段だということがわかるであろう。いま学校に求められるのは、このような「持つ」様式のディベート能力だけでなく、というより、それよりも、ディベートの前提について生徒が自分自身の明確な主張を持てるようにすることではないだろうか。ディベートは、その自分のなかに「ある」主張にたって相手を説得する能力を培う「ある」様式のディベートでなくてはならないのではないだろうか。