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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第8回

チャイム

時間の奴隷

チャイム。これは現代、というより近代の学校を象徴する事象である。しかし、これは決して近代になって始まったものではない。中世ヨーロッパの教会や修道院が告げる鐘の延長である。近代学校は宗教と分離したという意味では修道院と不連続であるかもしれない。しかし、時間によって計られる厳密なスケジュールによって日々の労働を規則正しく実践していくという修道院のエートス(人間を内面からつき動かす行為への実践的起動力)は近代学校に残ってしまった。中世の時間は昼夜別に区分が固定される不定時法で指示されていたのに対し、近代の時間は定量的に区分される定時法によっているという違いはあるが、エートスにおいては連続している。このエートスは近代になって機械による工場生産の発達によってますます強化されていった。

修道院においては、修道士たちにとって禁欲(正確にはキリスト教的禁欲というべきであろう。マックス・ウェーバーは西洋的禁欲と呼んでいる)が最高の価値であり、鐘によって知らされる時間にしたがって遂行される労働はこの価値を表現する手段だった。古代には労働せず他人の喜捨で生活する修道士も存在したし、キリスト教圏外では多く存在したであろうが、キリスト教圏内では、中世に移るにつれて労働は修道院生活における必須のものとなった。怠惰は霊魂の敵と考えられたのである。すなわち、この禁欲は無方針の現世逃避でもなければ達人的な域の苦行でもない。ウェーバーが、その名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』においていっている「非合理的な衝動の力と現世と自然への依存から人間を引き離して、計画的意志の支配に服される」ようなものである。

問題はこのように修道院という世俗外で守られていた禁欲が、世俗内の日常生活をも支配するようにもなったということである。ごく最近までは、これは問題ではなくよいことであった。禁欲という価値を尊重し、厳格なスケジュールにしたがって世俗内の人々も労働に励むようになったおかげで、資本主義が発展し、物質的な豊かさが獲得されたのであるから、それはむしろ高く評価されることであった。しかし、問題はまさにここにある。

厳格なスケジュールは、だれにも共通にわかるように紙の上に書かれるといった意味で時間の空間化であり視覚化である。それは過去から現在まで続いた時間の線上に未来の予定を描く直線的な空間である。切り取られた長さを単位として測定できる物理的な時間である。時間がこのように空間化されたことによって、人間は時間を自分の意思で合理的に、また、集団として組織的に、使うことができるようになった。自分にはどれだけの時間があるか、すなわち、自分はどれだけの時間を持っているかが明確になったからである。

しかし、それも束の間で、いつの間にか、人間は時間の奴隷になり下がってしまった。時間を測定しうる直線と考えるようになったということは、現在から過去に戻る反復的ないし循環的な生活が、現在から未来を志向する生活に転換したことを意味している。しかも、その未来はデッドラインのある条件つきの時間である。デッドラインとは、刑務所の周囲にある越えると射殺される線、すなわち死線である。

人間は時間を空間化することによって、直線上に描きうる地平としての未来を獲得したが、それはもしかしたら越えて射殺されるのではないかという不安をともなった未来である。未来は希望でもあるが、それは不安をともなっているのである。

ひるがえって学校に目を向けてみよう。学校はデッドラインで充満しているのではないだろうか。チャイムはそれを象徴する代表的事象である。チャイムは授業の楽しさに時のたつのを忘れている子ども、一生懸命に考えている子ども、すなわち、自分のなかに「ある」時間を過ごしている子どもを空間化された時間の現実に引き戻してしまう。逆に、楽しくなくてもわからなくても、子どもたちはチャイムが鳴るまでは忍耐を強いられる。

このような閉塞された状況から学校を解放するには、点としての時間、「だれだれが、何かをし終わったとき」といった時間、子どものなかに「ある」時間の回復を図らなくてはなるまい。