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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第9回

カリキュラム

一人ひとりの個性的な学びを尊重

カリキュラム(curriculum)というのは、「走ること」とか「走路」を意味するラテン語クッレレ(currere)からきたことばである。今日では、カリキュラムは、一般に、生徒のために系統的に組織されている教育計画の全体をさすことばとなっており、わが国では「教育課程」ということばがあてられているが、そこにはやはり「走る」あるいは「走る路」といったイメージが強いように思われる。

生徒はいかに速く学んだか、どのくらい長く学んだかということ、すなわち、走行時間や走行距離によって評価されている。指導者である教師のほうも、いかに速く教えたか、いかに多く教えたかによって評価されている。明治時代から先進欧米諸国に一日も速く追いつくことを目標にして発展してきたわが国の場合には、この傾向が特に強いように思われる。

前に述べたように、わが国では、何かを学ぶことを「勉強する」というが、この「勉強」ということばは中国では「無理(に)」とか「無理をする(させる)」という意味に使われており、そこには「学習する」といった意味は全く含まれていない。たとえば、英和辞典では、study やlearn に「勉強する」などの訳を与えているが、英漢辞典では、勤労、学習、研究などという訳が与えられており、「勉強」ということばは出てこない。ところが、1862(文久2)年に洋書調所が出した『英和対訳袖珍辞典』では、studying の訳の一つとして、すでに「勉強する」が出てくるのである。

さらに興味深いのは、中村正直がサミュエル・スマイルズの有名なSelf Help の翻訳(『自助論』明治4年)のおいて、painstaking labour すなわち、苦しみをともなう労働という英語も、study という英語も、ともに「勉強」と訳していることである。

われわれ日本人は、買い物で値段をまけてもらうときに、「勉強してください」という。これは買い手が売り手に無理強いをする行為であるが、スタディすなわち学ぶという行為も生徒が教師から無理強いされることだと考えられているということである。学ぶことは苦しみをともなう労働であるという観念が、わが国では古くからあったということであろうが、これはカリキュラムは人よりも速く走る路だと考えられていたからに違いない。

このようなカリキュラムは、生徒を獲得した知識の程度や量によって評価するという意味で、「持つ」カリキュラムだといえるであろう。

いまわれわれが払拭しなくてはならないのは、このようなカリキュラム観ではないだろうか。「持つ」カリキュラムによって、わが国の学校教育は国際的に高く評価されているむきがあるが、われわれが21 世紀に目指さなくてはならないのは、子ども一人ひとりが、教師からの意図的な働きかけだけでなく、家庭、地域社会、仲間集団、マスコミなどさまざまな環境のなかで、それぞれ個性的に学びとっていること、体験していることを尊重することである。

「持つ」カリキュラムは、それを子どもが学習したかどうかとは関係なく、すなわち子どもの外に客観的に存在しているが、子ども一人ひとりが体験しているかどうかを尊重する場合には、カリキュラムは子ども自体のなかに「ある」ものとしてとらえられる。それは個性的なものであるから、相互に同じ次元では比較することがむずかしい。すなわち、他よりより多く学んだか、他より速く学んだかを較べることが困難である。このように子ども一人ひとりが学びとったものを真のカリキュラムと考えるべきであり、これは「ある」カリキュラムと呼ぶことができるであろう。

学校改革の視点として、いま最も重視すべきは、「持つ」カリキュラム観から「ある」カリキュラム観への転換である。