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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第11回

自然体験

正解主義を脱する契機に

第15 期中央教育審議会は、平成8年7月19 日に発表した第1次答申において、最近の子どもたちは、テレビなどマスメディアとの接触にかなりの時間をとり、疑似体験や関節体験が多くなる一方で、生活体験・自然体験が著しく不足しているということを問題として指摘している。ここで考えてみたいのは、自然体験といったときの「自然」についてである。

広辞苑によると、自然について次のような説明が与えられている。

①おのずからそうなっているさま。天然のままで人為の加わらないさま。あるがままのさま。

②人工・人為になったものとしての文化に対し、人力によって変更・形成・規整されることなく、おのずからなる生成・展開によって成りいでた状態。

③おのずからなる生成・展開を惹起させる本具と力としての、ものの性(たち)。

④人間を含め、山川・草木・動物など、天地間の万物。宇宙。

⑤精神に対し、外的経験の対象の総体。すなわち、物体界とその諸現象。

⑥歴史に対し、普遍性・反復性・法則性・必然性の立場から見た世界。

⑦自由・当為に対し、因果的必然の世界。

⑧人の力では予測できないこと。

「自然」ということばは、以上のようなさまざまな意味に用いられているが、子どもたちの自然体験が不足しているといったときの自然は④の「山川・草木・動物」といった意味のように思われる。自然体験の不足を補うには、子どもたちを山や海に連れて行く必要があるというのが一般の考えかたであろう。

いずれにしても、右に列挙したような意味での「自然」には、すべて共通した点がある。それは「自然」はそれに対している人間の目や耳や心とは関係なく客観的に存在しているという認識である。これはこれまでの自然への人々の態度である。

この態度は自然科学だけでなく、社会科学においてもモデルとされてきた。社会科学は実証科学であるというのはそのような態度をあらわしている。そして大問題なのは、この態度が学校教育をも支配するようになってしまったことである。何事にも正解がある、というよりも一つの正解しかないという思想が学校における教育指導の根幹をなしている。

いま重要なことは、自然が客観的な存在なのではなく、それに対する人間の目や耳や心などによってとらえられた主観的な存在だということを再認識することであろう。

子どもたちを山や川に連れて行って自然にふれさせることは重要であろう。しかし、それはただ山川や草木や星座の名前を覚えさせたりするのではなく、目でみる自然、耳で聞く自然、足で感ずる自然が同じではないとか、同じ目でみるにしても、自分がみたものと友達がみたものとでは違うといったことをさとらせるためでなければならないであろう。唯一の現実が存在するという錯覚を植えつけている教室での教育の間違いを、子ども自らにさとらせることが自然体験のねらいでなければならないであろう。

現代の子どもに自然体験が不足していることの問題は、山や川に行った経験が不足しているということよりも、自然を客観的な存在としてだけ考え、つまり、知識として「持つ」対象としてだけ考え、自分の目や耳や心でとらえる経験が欠落していることのなかにあるというべきであろう。いま子どもたちにとって何よりも重要なことは、この経験の欠落を野外に身を置くことによって、自分にとって「ある」ところの自然を感ずることであろう。リンゴが木から落ちるのを見せて、すべての子どもに一斉にこれが万有引力の証だと説明する科学至上主義のもとでは理科離れ傾向を阻止することは期待できないのではないだろうか。

科学法則ですら人間の主観によって構築されたものである。「持つ」自然を体験するのではなく、「ある」自然を体験することへの転換を期待してやまない。