ホーム>ゆとりの学び ゆとりの文化 第12回

ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第12回

人 生

払拭したい「私は……である」という思いこみ

カウンセラーとして知られるウエイン・W・ダイア―の『自分のための人生』(渡部昇一訳、三笠書房)という本を、帯に書いてある訳者のことばにひかれて読んでみた。それは次のようなことばである。

「この本ほど自分の大切さを教えてくれるものはない。人間、だれしも自分の仕事、生き方に思い惑うものだが、この本のページを繰るだけでそんな悩み、不安が消し飛び、不思議な力が湧いてくる」

中教審が提起した「生きる力」をキーワードにした実践的努力が各学校で始まろうとしているが、それを具体的にどうとらえるかとなると、必ずしも明確ではなく、学校としても悩んでいるところであろう。わたしもいろいろ考えあぐねていたところであったので、何かヒントが得られるのではないかと思ったのである。はたして読み進むうちに、もやもやしたものが晴れていくような気持ちであった。

叙述は人生訓的であり、内容は多くの人生論にも述べられていることではあるが、著者の豊富なカウンセリング体験に基づいた提言であるため説得性が高い。全世界で1380 万部を突破した記録的ベストセラーであるというのもうなずけるような気がした。

原表題はYour Erroneous Zone である。渡部氏は「誤信帯」と訳しているが、要するに、「間違った思いこみ」といったところである。本書は、われわれの意識のなかにある数多くの「間違った思いこみ」の例をあげ、それを克服する道を示しているのである。

読んでいくと、いかに「間違った思いこみ」が多いかを思い知らされる。なかでも重要と思われるのは、「私は……である」という思いこみである。

われわれは自分にいろいろなレッテルを貼っている。「私は神経質である、私は内気である、私はなまけものである、私は音痴である、私は不器用である、私は忘れっぽい、といったレッテルがある一方、たぶん、肯定的な『私は……である』もたくさんあるだろう。たとえば、私は誠実である、私はブリッジがうまい、私は感じがいい、といった具合に」である。

ダイアーは自分を語ることばそのものがいけないといっているのではない。「使い方次第では有害になり得る」「レッテルを貼るという行為自体が、成長を妨げる一つの要素なのかもしれない」というのである。キルケゴールの「もしもあなたが私にレッテルを貼るなら、それは私の存在を否定することになる」ということばも引用されている。

人間は他者からレッテルを貼られることによって、本当に「私はそうである」と思いこんでしまい、その「レッテルに合わせて生きなければならなくなったとき、その人は存在しなくなる」というわけである。これは心理学におけるピグマリオン効果(ローゼンタールとジェイコブソンによって発見された、児童生徒の学業達成度などに対する教師の期待効果)や社会学におけるラベリング理論(他者が特定の行為や行為者に対して逸脱者としてのレッテルを貼ると、それを貼られた者はレッテルどおりの道を歩まざるをえなくなってしまうという理論)を裏づける証言である。

「私は……である」という表現のほとんどは、以前、人に何かいわれたことがどこかにひっかかっていて、それが外に出たものだとダイアーはいう。たとえば「あの子はちょっとぎこちないのよ。兄さんの方は体操が得意なのに、あの子は勉強家タイプね」と親にいわれたことが、心に終生ひっかかっている場合もあるであろう。ダイアーは『自分を掘り起こす生き方』(渡部昇一訳、三笠書房)で、「森の中で過ごしたり、山歩きをしたり、野原や海岸を散歩してごらんなさい。自然の中にいるというだけで、『もっと欲しい』という病気が治っていくことだろう』とも述べている。「私は……である」というのも一種の病気であろう。自分の「ある」姿をみつめ、自分を規定しないためには自然とのふれあいも重要ではないだろうか。