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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第14回

生涯教育

仲間と学ぶ楽しさ

生涯学習が、単なる掛け声ではなく、各地で盛んになっているが、生涯学習はそれを行うものにとってどのような意味があるものであろうか。最近はよく学習は「楽習」でなくてはならないといわれる。学習はつらくて厳しくなければならないと厳しく考える人もいるが、やはり生涯学習には「楽しい」という要素が不可欠であることについては、おおかたのコンセンサスがあるように思われる。

しかし、生涯学習の何が楽しいかということになると人さまざまであろう。そこで筆者の出身地である長野県須坂市の公民館で行われている市民学園と呼ばれる生涯学習グループに参加している人たちに、初めに期待した“楽しさ”と現在の“楽しさ”いついて調べてみた。

結果はたいへん興味深い。市民学園の“楽しさ”は、最初も現在も、「知識を得たり、技術を高められる」「学ぶこと自体」「仲間や友達ができる」(以下においては、「知識」「学ぶ」「仲間」と略す)の三つに集中している。しかし、学習が続いていく過程で、「知識」と「学ぶ」を“楽しさ”の源泉とする者の比率は減少していくのにたいして、「仲間」が楽しいとする者の比率には上昇傾向がみえる。また、この三つを比較すると比率は低いが、「解放された気分になる」「学級やクラブで、自分の持ち味を生かせる」「学んだことを家庭や地域で生かせる」(以下、「解放」「学級」「地域」)の比率が上昇していることも注目される。

しかし、さらに分析してみると、“楽しさ”の源泉は、これらの項目のなかに単独で存在するのではなく、「知識」「学ぶ」「仲間」の三つの項目のなかの二つの複合のなかにあることがわかった。そして、さらにわかったことは、この“楽しさ”の複合が最初から現在の間に変化することである。その変化の傾向は次のようであった。

最初に「知識・学ぶ」を“楽しさ”の源泉として期待した者は全体の19.8%であったが、そのうち現在も同じ源泉に“楽しさ”をみいだす者はその約5分の1に減り、他は仲間を含む複合(知識・仲間、学ぶ・仲間、仲間・学級、仲間・地域)に分散していく。それに対して、「知識・仲間」「学ぶ・仲間」を初めに期待していた者の場合には3分の1以上が現在も同じ源泉に“楽しさ”をみいだしており、他の複合への分散は比較的少ない。

以上のような結果は、生涯学習の“楽しさ”には「仲間」という要素が不可欠であることを示唆している。生涯学習の“楽しさ”は知識を「持つ」ことにあるというよりも、仲間と一緒に学べるということ、すなわち「ある」ことのなかにあるということである。もちろん、たとえ仲間とともに学んでいても、知識の修得という欲求が満たされなければ“楽しさ”は減殺されてしまうが、仲間は学習という活動すべてにおいて“楽しさ”を生む不可欠の要素だということが、以上のようなささやかな調査の結果から、あらためて確認することができたのである。

知識を得るだけの学習は「持つ」学習であり、仲間づくりをともなう学習は「ある」学習といってよいであろう。