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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第15回

秘められた宝

「知る」ということの意味

学生時代の古い話であるが、ある知りあいのアメリカ人に、ある有名な人のことを「知っている(Know)といったところ、彼はとびあがるほど驚いた様子で、「いつ、どこで、どうやって、そのような人を知ったのか」と聞くではないか。そう聞かれて私もびっくりしてしまった。別に会ったことなど一度もないけれど、有名だから、本は読んだことがある程度だと答えたのである。

そうしたところ、彼がいうには、それならばKnow といわずにKnow of といわなくてはならないと教えてくれたのである。考えてみれば、日本語でも、「彼女を知っている」というのと、「彼女のことを知っている」では、意味が同じではない。「彼女のことを知っている」というのは、彼女についての「知識を持っている」ということであり、「彼女を知っている」というのは、彼女とつきあいがあるとか、深い仲になったことがある、といったこと、すなわち、彼女とともに「ある」あるいは「あった」という意味あいがあるのではないだろうか。

ちなみに、Know ということばには古くは性的関係ができる、といった意味があったのである。たとえばAdam knew Eve his wife. というのは、アダムはエバと性的に結ばれて妻にした、といった意味であろう。また、Know は「心にかける」とか「体験する」、「…の体験がある」といった意味でも使う。

エーリッヒ・フロムは、名著の一つ『生きるということ』(佐野哲郎訳、紀伊国屋書店、原文表題は、To Have or To Be)において、「私は知識を持っている」と「私は知ってしる」とでは、基本的に異なっていると述べている。「私は知識を持っている」というのは、「知ること」の領域における「持つ」様式であり、それに対して、「私は知っている」というのは「ある様式」だというわけである。

フロムのいわんとすることは、「知識を持つ」ということは、知識を情報として手に入れ、保持するということ、いいかえるならば、知識を実利のために使うということである。試験でよい成績をとるために知識を得るという場合がそれである。いっぽう、「知る」というのは、フロムによれば、幻想を打ち砕くこと、幻想からさめること、根源まで、ひいては原因にまで達するために、うわべを突き抜けること、裸の現実を<みる>ことで、真実を所有することを意味しない。絶えず、真実によりいっそう近づくために、批判的かつ能動的に努力することである。

フロムは以上のことと関連させて、学校はこれまで、知識を所有物として「持つ」ように訓練することに重点をおいてきたことを批判している。「インドの思想や芸術から実存主義やシュルレアリズムに至るまで、膨大な知識の前菜が出され、学生はこちらで少し、あちらで少しとつまむのであって、自発性と自由の名において、一つの主題に集中することは強要されず、また一冊の本を完全に読み終えることさえ強要されない」と述べている。これは大学教育についての批判であるが、学校段階の高低を問わず、これはすべての教育についていえることではないだろうか。

いま、わが国の学校では、「総合的な学習の時間」が導入されることになり、大騒ぎをしているが、関心の中心はどういう形で行うかという形式論に集中しているように思われてならない。もちろんそれも無視してはいけないであろうが、まず第一に重要視しなくてはならないことは、「総合的な学習の時間」が「知識を持つ」ための時間にならないようにすることであろう。

ユネスコから1996 年にLearning: The Treasure Within という注目すべきレポートが発表され、1年後に『学習―秘められた宝』(天城勲監訳、ぎょうせい)と題して邦訳も出された。これはユネスコが設けた「21 世紀教育国際委員会」がまとめたもので、まさに21世紀における学習のありかたを示したものであるが、「秘められた宝」というのは、学習は知識を外に蓄える宝としてではなく、自らの内に宝が「ある」ようにすることでなければならないという意味であろう。

21世紀が「持つ知識」ではなく「ある知識」の世紀になることを祈っている。