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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第17回

老 い

年齢によって失われないものを育てる

日本における人口は急速に高齢化している。国連が、65歳以上人口が総人口に占める比率を基準にして、それが4パーセント未満の国は「若い(young)国」、4~7パーセント未満は「成熟した(mature)国」、7パーセント以上は「高齢化した(aged)社会」と規定したことから、現在は全人口に占める65歳以上の人口の比率(老年人口比率)が7%以上で、それがさらに上昇しつつある社会が高齢化社会と呼ばれている。

この基準でみると、わが国は1970(昭和45)年に7パーセントを超えて高齢社会になり、その後、この比率は年々上昇を続け、1994 年には14.1 パーセントになった。2020 年には25.5 パーセント、すなわち、国民の4人に1人が65 歳以上になると予想されている。わが国はすでに高齢社会であると同時に、さらに高齢化傾向を続ける高齢化社会でもある。このように社会の高齢化の程度は、現在では65 歳以上の人口の比率で判断されているが、何歳以上を老年とみなすかは社会や時代によって同じではない。アメリカでは1948年にすでに「モダーン・マチュアリティ」(MM)という雑誌が全米退職者協会によって創刊されているが、対象は55歳以上の人である。当時は55歳以上が高齢者の基準だったのである。

人間の一生の発達課題についてのハヴィガーストの名著『人間の発達課題と教育』(Human Development and Education)が出されたのは1953 年のことであるが、最後の発達段階である老年期は55 歳以上とされている。

わが国の場合、平均寿命が50 歳を超えたのは第二次大戦終了後のことであるから、1950年ごろは55 歳以上は高齢者とみなされていたといってよいであろう。しかし、いずれにしてもこれは社会的な年齢意識、社会的な高齢者観であって、個々人の意識はこれと同じではない。興味深いことに、高齢期はいくつから始まると思いますかという調査をすると、40代の人は65歳からと答えるが、50代の人になると70歳くらいから、60代になると80歳くらいからというように、だんだん高齢期が始まる年齢が高くなっていく。

これは自分を高齢期に位置づけることを心理的に避けようとしているからであろう。老いをネガティブに、マイナスのイメージでとらえているからであろう。自分が持っていたもの、大事にしていたものを失うときが高齢期の始まりだという考えかただといってよい。

はたしてこのような老後観でよいのだろうか。確かに、ある年齢に達すると地位やそれにともなう権力から離れなければならない。容貌も年齢とともに衰えていく。体力も衰えていく。子どもは独立して離れていく。所有していたもの、というより、所有していたと思っていたものはしだいに失われていく。所有に執着するかぎり、このことは寂しいことであろう。だからこのような時期がくるのは、なるべく遅いほうがよいと考えるのであろう。あるいは、自分を基準として、そのような時期がくるのはまだずっと先のことだと考えるのであろう。

しかし、これは個人だけの問題ではない。社会の文化の問題でもある。「持つ」ことに価値を置く文化の問題である。もし、一人ひとりが持っているものではなく、一人ひとりのなかに「ある」ものに価値をみいだす文化であれば、ある年齢を境にして何かが失われることを恐れる必要はない。持っていた何かは失われても、自分のなかに「ある」ものは失われないからである。

高齢社会における教育の重要な課題は、ある年齢を境にして失われない「ある」ものを、若いうちにつくっておくことであろう。これまでの教育は第一の人生に役にたつことを目標にした「持つ」ための教育であったが、これからの教育は第二の人生における生きがいにつながる体験を子ども時代にすることができるようにすることを目標にする「ある」ための教育でなければならない。