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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第20回

心の時間

時計本位でない体制願う

古い話になるが、昭和37(1962)年に東京でアジア文部大臣会議が開かれたおり、インド文部省の高官であり教育学者としても著名であったナイク氏を、日本文部省のスタッフとして、近郊の小学校に案内したときのことである。学校では子どもたちとの交歓、子どもたちへの講演など、予想外の出来事があったりして、ナイク氏はご満悦であった。

ところが役所にもどったところ、局長以下お歴々が、殺気だった雰囲気で待ち受けているではないか。何事かと思うと、当日はほかにも重要な人物と会う約束ができていたらしいのである。

それをスッポカシタため、苦情の電話が入り、おえらがたは緊張していたというわけであった。

そういう約束のことはナイク氏から聞いていなかったので、ただちに詰問したところ、氏はニコリと肩をすくめて、「同時に何人もの人と別の場所で会うことなどインポッシブル(不可能)だ」とおっしゃったのである。そのこと自体はごもっともであり否定する余地はないのであるが、われわれの感覚からいえば、同時に何人もの人と会うようなスケジュールをつくることは常識に反するし、後にアポイントメント(約束)があれば、前の約束をしかるべく切り上げるなり、遅れるとか行かれなくなった旨の連絡をとるのが普通であろう。

 

出会いの時間

しかし、氏にはそのような感覚はなかったようであり、「アイ・アム・ソーリー(すみません)」という返答を期待したのであるが、そのようなことばはついに聞かれなかった。ナイク氏は、約束を反故にしたことを、別段悪かったとは思っていなかったのである。むしろ、あなたたちは、なぜそんなにいきり立っているのかとさえいいたげな様子であった。

氏によれば、たとえ予想外であったとしても、日本の子どもたちとの出会いの時間を大切にしたかったのである。思えば、このようなことはアジアの国々で何度も経験したことがある。約束の時間に相当遅れて来ても、来る途中友達と会ったので、といって平然としているのである。

 

延長物としての時間

近代化が進んだ社会では、時計とか暦というわれわれの体外にあるもの――ユニークな時間論を展開しているエドワード・ホールは名著『文化としての時間』(原文はDance of Life=生活の舞踏)で、それを「延長物」と呼んでいる――によって生活のリズムを社会的・文化的につくっている。しかし、近代化の高い波がまだ押し寄せてくる以前の農業社会においては、時間は「ご飯が炊けるまで」「乳を搾る間」といったように出来事によって測っていた。時刻は日の出とか日没のような自然の現象をもとにして決められていた。

高度の産業社会、さらにはそれに続いて発展している高度情報化社会では、このように出来事によってスケジュールをたてることは、きわめて少なくなっている。

学校も例外ではない。というより、学校がもっともそのようなスケジュールから離れてしまっている。授業はチャイムによって始まり、チャイムによって終わる。学習という出来事が終了していなくても、チャイムとともに授業は終わる。逆に、もう子どもは学習を終えているにもかかわらず、チャイムが鳴らないために授業がズルズルと引きずられている場合もある。

 

出来事で決める時間

このように、決められた時計時間で区切られた時程にしたがって行われる授業体制のもとでは、教師は子どもから出される予期しなかった問いに、時間を気にせずに立ち止まって、一緒に考えるというゆとりはないであろう。

これからの教育においては、45分とか50分といった学校で定着している授業の単位時間にしたがって授業を区切るのではなく、授業の過程で生ずる予期せぬ出来事にも柔軟に対応できる時間運用が行われるようになることが重要である。時計という体外にある延長物による時間ではなく、子どもたちの心の時間を大切にできるように、出来事で決める柔軟な時間運用システムを、各学校が創意工夫して創造することを願っている。