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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第24回

謝 罪

幅広くふれあう体験が重要

謝罪という行為は、個人のレベルにおいても国家のレベルにおいても、相互の関係を維持していくために必要な行為である。

個人のレベルにおいては、電車のなかで人の足を踏んでしまったとき、人より先にエレベーターに乗るときなど、「ごめんなさい」、「すみません」といったことばによって日常茶飯事として行われている。国家の間では、たとえば、戦争の歴史的意味や、戦争のなかで行われたさまざまな行為をめぐって謝罪という行為が問題となる。

また、その行為は、行為者が一方的に行う場合もあれば、行為の相手の「謝れ」という要求によって行われる場合もある。

法に違反した行為によって罪を問われ、刑務所に服役するというのは社会の要求によって行われる謝罪だといってよいだろう。

このように謝るという行為には、さまざまなレベルがあるが、いずれの場合においても、謝る者に本当に罪の意識があるとは限らない。謝罪というのは「悪かった」、「申し訳なかった」という罪の意識を表明する行為であるが、その行為者に真に「申し訳ない」という気持ちがあるとは限らない。とにかく謝ってしまえば、相手の気持ちもおさまるだろう、仕返しという仕打ちを受けないですむだろうということから、口先だけの謝罪をする場合が多いであろう。

ここで問題になるのは、本当に「申し訳ない」という気持ちもないのに謝罪することは是か非かということである。

最近、わが国には歴史を正視して過去のアジア侵略を反省すべきだという意見が強くなっている。これは侵略された側からは、つとにいわれてきたことであるが、わが国においては、そのような意識は必ずしも強かったとはいえない。逆に、謝る必要などないと主張する者すらいる。

思想の自由という観点にたつならば、歴史の解釈については多様性を許容しなければならないかもしれないが、問題にしたいのは自己の意識に反する謝罪の問題である。

ここで想起されるのは、ドイツのワイツゼッカー元大統領が語ったといわれる「心からの謝罪でなければ、やめるべきでしょう」ということばである。彼は次のようにも述べている。

「国家など抽象的な集団に罪を求めることは偽善にすぎない。……集団が悪いと言えば言うほど個人のとしての道徳的感性が低下していく」(『中日新聞』95・8・31)

集団が悪いといえばいうほど個人としての道徳的感性が低下するかどうかは議論の余地があるであろうが、謝罪は心からのものでなければ、しないほうがましだという考えかたには、日本人は注目すべきであろう。

第2回の「道徳」の項において、ルース・ベネディクトが『菊と刀』のなかで、日本文化を恥の文化、西欧の文化を罪の文化だと指摘したことを述べたが、心からのものでなければ謝罪をしないほうがよいという考えかたは、罪の文化に根ざしているといってよいであろう。恥の文化を特質とする日本の文化のなかでは、行為を評価する基準は世間のなかにある。したがって、われわれ日本人は謝るかどうかの判断を、自己の心のなかに照らして行うのではなく、自分の外にある世間の目に照らして行う。

いま問われなくてはならないのは、心はどうでも、謝りさえすれば相手は許してくれるであろうという日本人の心象であろう。罪の文化は心のなかに「ある」文化であるのに対して、恥の文化は「持つ」文化である。

われわれ日本人でも、相手が自分の子どもであったり、親であったりするならば、心のなかから謝ることであろう。われわれ日本人の謝罪行為が心と離反するのは相手が他人のときである。したがって、日本人にとっての課題は、心から謝る他者の範囲を身内から地域社会へ、さらには地球社会へと広げていくことであろう。

その意味で、人間と人間が幅広くふれあえるような体験が重要ではないだろうか。