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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第25回

学級崩壊

「問題視」自体が問題

いま、学級崩壊が教育の大問題の一つとなっているが、次々とそれが報道されるのを聞いたり読んだりするにつけ痛感することは、学級崩壊だといわれる状況を学級崩壊として問題にすることが問題ではないかということである。

アメリカには社会問題学会という学会があるが、それはある現象が社会的に問題にされることを問題視するというスタンスに立つ学会である。かつてその会長をしていたキツセ氏が来日したおり、日本が海外帰国子女を社会的教育問題として大騒ぎしていることは問題だと指摘していた。海外に行き、数年間海外に滞在して日本に帰国する日本人の子女は昔も存在したのに、それが増えたからといって「海外帰国子女」というカテゴリーをつくって、それを特別扱いしようとすること自体、日本の非国際性を示すものだ。外国に行って、日本の文化を脱ぎ捨てて帰国した人間は、もう一度日本文化に適応させなくてはならないと考えるから、「海外帰国子女」というカテゴリーがつくられたのではないか。これがキツセ氏のいわんとするところである。

 

問題が問題を生む

考えてみると、外国、少なくともわたしが知っている英語を使う国には、海外帰国子女などということばは存在しない。ことばが存在しないということは、海外に行き、帰国する子女が存在しないということではなく、その存在を特別視していないということを意味しているといってよいであろう。

このようにある存在に名称を与えてそれを問題とすることが問題であるのは、名称があるために、それに相当すると考えられる者が増やされていく。すなわち、問題が拡大再生産されていくからである。人間の特異性を示すようなことば(たとえば、「ほら吹き」)がつくられると、「あいつもほら吹きだ」といったように、どんどんと世のなかに「ほら吹き」が増やされていくといった状況を考えてみれば、そのことがよくわかるであろう。

学級崩壊が問題とされることが問題だというのも、それと同じ意味である。学級が崩壊していると言われる状況は、おそらく千差万別であろうが、ある一つの学級にある状況が生まれたとき、それにだれかが学級崩壊という名をつけてしまったために、学級に何か普段あるいは平均的な姿とは違う状況が生まれると、「また、学級崩壊だ」といった具合に、崩壊学級の数が増えていき、何とかしなくてはならない大教育問題とされてしまっているのが、いまの状況ではないだろうか。

いったいだれが学級崩壊などという言葉をつくったのかという犯人捜しをしようとは思わない。しかし、心当たりのある人は、この言葉をつくったのは自分だなどと悦に入らずに、深く反省をしてもらいたいものである。

 

ゆとりを狭めるカテゴリー

われわれは、あるカテゴリーをつくることに慎重でなければならない。カテゴリーは、みえなかった現象をみえるようにしてくれる力を持つが、逆に、そのことは、ものをみるわれわれの「ゆとり」を狭めてしまう危険性を常に持っているのである。

ところで、学級というのもカテゴリーである。実は、学級はわが国の学校だけではなく、世界の国々における学校における教育の基本的単位となっており、そのことは当たり前のことと考えられている。学級という概念がつくられ、それが制度化され、それを崩すことは、よくないことだという強固たる観念が教育関係者の心のなかに根づいてしまっている。ベテランの教師ほどこの観念にとりつかれているように思われる。

いま、教育改革は、「生きる力をはぐくむ」ことと、そのための「ゆとり」を二大キーワードにして進められており、その具体化の方策の一つとして「総合的な学習の時間」が小学校から高等学校にまで導入されることになったが、この改革を実現させるには、学級というカテゴリーにとらわれないことが重要である。

すなわち、「学級」は崩壊すべきである。