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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第27回

記 憶

外部化されて肥大

ひところ竹村健一さんが、手帳を片手に振りかざして、これがあれば大丈夫、と語るテレビ・コマーシャルがあった。電子手帳か何かの宣伝であったのであろう。スケジュールから知人・友人の名簿などにいたるまで手帳に記憶してしまえば、忘れてしまってもすぐに検索できるので安心だ、というのがそのコマーシャルの意図であったのであろう。

でも本当に安心であろうか。

数年前、手帳が紛失してしまい大変に不安な状態に陥った経験がある。こんなことは程度の差はあるにせよ、だれでも経験したことがあるのではないだろうか。そのときは、いま勤務している大学のある上越市に隣接する新井市の警察に届けられて事なきをえたのであるが、警察から連絡があるまでの約1週間の不安状態は、ややオーバーかもしれないが筆舌に尽くし難い。あやふやな記憶をたどりながら、約束したかもしれない人や機関に、片っ端から、今週は何かあったでしょうか、といちいち電話で尋ねたおりの心境は、同様の経験のある人であればご理解いただけるであろう。ただ断っておくが、女性とのデートの約束はなかったように思う。

とにかく、手帳があれば安心、というのも結局は、手帳が手元にあればの話であり、それが手元から離れてしまえば、安心はたちどころに不安に逆転してしまうのである。

とにかく、手帳があれば安心、というのも結局は、手帳が手元にあればの話であり、それが手元から離れてしまえば、安心はたちどころに不安に逆転してしまうのである。

教師をしていて、最近悩むことの一つは、学生の名前を当人が目の前にいても思い出さないことが多くなったことであるが、これは老化現象のあらわれにすぎず、普通は、ゼミの学生のように密接な関係のある者については、出会えばただちに名前を呼ぶことができる。しかし、多人数の講義のなかで出会うだけのような学生の場合には、廊下などで顔をあわせても名前が出てこない。名前を追求したいときは、部屋にもどってから名簿=手帳をみて、だれであるかの見当をつけることになる。

疎遠でない関係ができあがっている人や事柄については、だれしも自分の身体の内部に記憶していることであろう。しかし、そのような関係が確立していない場合には、そうはいかない。そこで竹村さんのコマーシャル御登場ということにあいなるのであろう。

このように記憶には身体の内部への記憶と外部への記憶とがあるが、問題なのは、コンピュータを核として展開している高度な情報化のなかで、外部化された記憶がますます肥大化しつつあることである。竹村氏の「手帳があれば大丈夫」という台詞が象徴的に示すように、記憶を外部に「持つ」ための装置が完備していれば、たとえ外部化された記憶が肥大化しても安心かもしれない。

しかし、その外部装置が自分の管理下から離れてしまったら安心は不安に変わってしまう。こうした事態を防ぐにはどうしたらよいのだろう。

おそらく外部記憶のための装置はますます発達していくことであろう。この流れをおしとどめることは難しいであろう。このような展望のもとに、不安状態が生まれるのを少しでも少なくするには、内部記憶を多くするようにすることが重要ではないかと思う。

といっても知識や情報をただ機械的に暗記せよなどというのではない。世のなかには、数字をみれば無意味なものであってもすぐに頭に入ってしまうという特殊な能力の持ち主もいるが、こんなことは万人に期待することは不可能だし、また必要でもなかろう。

ここで強調したいことは、内部記憶が増えるような深く温かい関係が社会のなかに多く生まれるように努力すべきではないかということなのである。いいかえるならば、「ある」文化を掘り起こしたり、発見をしたり、創造していくことが重要ではないかということである。