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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第29回

授 業

その場面の生徒の姿をとらえる

小・中・高等学校の場合であろうと大学の場合であろうと、授業は教師が主役になって生徒に対して行われる。わが国では、制度的には小学校の生徒は児童、中学校・高校では生徒、大学の生徒は学生と呼ばれている。このように教育の段階に応じて3つの呼称がある国はおそらく日本くらいではないかと思うが、どのように呼ばれていようと、授業は教師と生徒から構成される指導過程であることにかわりはない。教師はひとことも喋らず、生徒が黒板の前に出て発表することもあるが、それとても生徒が全く自主的にしゃしゃり出るわけではない。だれが、何を、いつ発表するかは、あくまでも教師の采配によって決定されるのである。

わたしの大学時代に、「学生が全く出席していなくても、わたしは授業をいたします」と豪語したドイツ語の教師がいた。われわれはその真実性を確認すべく、早速集団欠席を決行し、教室の外に隠れ、見守っていたところ、件の教師は、はたせるかな、教壇の前に立つやいなや、風呂敷からテキストを取り出し――風呂敷にはテキスト1冊しか入っていなかったように思われる――喋り始めたのである。われわれはそれを見届けた上で、教室には入らず、井の頭公園に出かけてしまった。野外文化の学習を行ったわけである。

このように生徒がいなくても独演する教師が例外的には存在するかもしれない。しかし、業を授けられる者が全くいないのでは、授業とはいえないであろう。やはり、授業が成立するためには、教師と生徒が必要である。

しかし、授業の進めかたは一様ではない。授業の展開の仕方については、さまざまにとらえることができるが、これまで多くの授業を観察しながら強く感じてきたことは、教師が生徒をどのようにとらえているかということによって、授業の姿に大きな違いが出てくるということである。

生徒についての教師のとらえかたには、大別すると二つあるように思われる。一つは教師(自分自身)とは無関係に、いいかえるならば、客観的に生徒は存在しているというとらえかたである。具体的にいうと、たとえば、数学の点数が70点の生徒といったようなとらえかたである。この点数は自分が行ったテストの結果である場合もあれば、ほかの教師が実施したテストの成績である場合もあるであろうが、いずれにしても客観的な結果である。あるいは、特定の生徒ではなく、学級全体をテストの結果が平均70点の生徒群と考える場合もあるであろうが、これも授業の対象を客観的存在とみなしていることにかわりがないであろう。この場合、教師にとって生徒は「持つ」存在である。

いっぽう、生徒がどうであるかは、教師との相互作用いかんで変わるものだというとらえかたがある。何点の生徒とか成績優秀な生徒といった先入観をいっさい抱かずに、その場面での生徒を自分の目や心でとらえるというものである。生徒を客観的な存在というよりは、授業のなかで教師自身がとらえた主観的存在であるというとらえかたである。この場合には、生徒は教師にとって、「ある」存在である。

このように、教師による生徒のとらえかたは、「持つ」とらえかたと「ある」とらえかたに大別できるが、どちらであるかによって授業の展開が違ってくる。

「持つ」とらえかたにおける授業は、あらかじめ準備した教材により、あらかじめ構想した流れにしたがって授業は進んでいく。この場合には、生徒からの予想外の反応は逸脱であり、その生徒は逸脱者、非同調者、非協力者とみなされる。教師は自分の所有している知識を教えることに集中する。

それに対して、「ある」とらえかたにおいては、教師が予想してもいなかった質問や解答をする生徒は、授業を創る協力者とみなされる。授業は予想どおりには進まない。授業のなかに「ある」生徒の姿によって、授業の流れは教材の面からも時間の面からも即興的に変わっていく。生徒は“学んだ”という充実感を持つ。
これは授業の技術論というよりは、授業の文化の問題であろう。