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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第30回

ボランティア活動の評価

「どう生きたか」より「どう生きようとしているか」

いま中教審などにおいて教育改革の方向についての審議が行われ、いろいろな具体策が提言されているが、やはり重要なことは、これからの社会のなかで主体的・創造的に生きていく子どもたちが身につけるべき力としての「生きる力」が学校において育てる基礎・基本とされることであろう。

しかし、いかに教育の目標がこのように転換したとしても、学年末、卒業の時点、入学の時点などにおける評価が、あいもかわらず知識の修得の程度を測定するテストによって行われるのであれば、新しい目標は画餅に等しい。

では、生きる力はどのように評価したらよいだろうか。これからはボランティアの時代だといわれる。学校もようやくボランティア活動に積極的な姿勢を示し始めている。行政においても児童生徒のボランティア活動を入学者選抜において評価するという考えかたを提起している。しかし、これについては建前としては賛成しながら、現実には何をもってボランティア活動と認定するかがむずかしいので反対だという考えかたが強いように思われる。また、ボランティア活動の範囲等が明確になったとしても、それにどのように、どのくらいかかわったかによって評価点をつけることはさらにむずかしいので、ボランティア活動への参画を選抜の評価基準のなかに取り入れることは適切ではないという見解もある。

しかし、このような考えかたには大きな間違いがある。ボランティア活動には、他者への貢献と同時に自己の人間としての成長という二つの側面があるが、教育の評価にあたって特に重要なのは後者であろう。したがって、評価は人間としての正長という観点から行われなくてはならない。すなわち、どのようなボランティア活動に、どの程度、どのように参画したかではなく。そのことによってどのくらい人間として成長したかが評価されなければならない。重視すべきは、何をしたかではなく、これから何をしようとしているか、これからどのように生きようとしているかということである。

わが国では、昔の名前――過去の名声や肩書き――がないと正統とはみなされない風潮がある。ひとつの分野を一筋に歩んできた人が高く評価される。これはスポーツ・学問・経済など、分野を問わず同じようにみられる傾向である。転向や転職は正統派とみなされない。たとえば、欧米ではさまざまな異なる分野を専攻し、多様な分野で注目すべ業績をあげている学者が多いが、わが国の場合には、研究分野の一貫性が尊重され、多様な分野を遍歴する者は変わり種とみなされてしまう。研究者を養成する大学院の入学者の選抜においても、これから専攻しようとする分野をそれまでに専攻している者のほうが、そうでない者より高く評価される。

要するに、わが国においては、どのような業績を持っているかが重視され、現在どのような意欲や能力があり、これから何をしようとしているかは等閑に付されてしまうことが多いのである。わが国が学歴偏重社会といわれるゆえんである。昭和56年の中教審答申「生涯教育について」は、「我が国には、個人が人生の比較的早い時期に得た学歴を社会がややもすれば過大に評価する、いわゆる学歴偏重の社会的風潮があり」と指摘し、これからは「人々の生涯を通ずる自己向上の努力を尊び、それを正当に評価する、いわゆる学習社会の方向を目指すことが望まれる」と提言しているが、ここで重要なことは、どのような努力をしたかではなく、どのような努力をしようとしているかということが評価されることであろう。

ボランティア体験はこれからいっそう重視され、それが正当に評価されなければならないが、体験歴を尊重するのでは、学歴偏重社会が体験歴偏重社会に名をかえるだけに終わってしまうのではないかと危惧される。「どう生きたか」よりも「どう生きようとしているか」を評価することが「正当な評価」であろう。