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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第32回

休み時間

一人ひとり違う学びの時間

最近、学校の「休み時間」における子どもの行動・活動や意識についての調査研究を始めた。学校における時間の中心は、教師が児童生徒の教育を意図して設定した時間、すなわち、授業時間が中核であろうが、このほか学校には、いわゆる「休み時間」と「休憩時間」がある。

「休み」も「休憩」も本業をしていない時間という意味では同じであり、したがって、「休み時間」も「休憩時間」であるが、学校において「休み時間」というと、児童生徒に与えられる「休憩時間」のことであり、それに対して、「休憩時間」は教師に与えられる休みの時間である。子どもにとっては、「休み時間」も「休憩時間」も授業を受けていない時間という意味で同じであるが、教師にとっては、実態はともかく、制度的にいうならば、「休み時間」は労働時間であるのに対して、「休憩時間」は労働時間には算入されない時間である。

「休み」も「休憩」も本業をしていない時間という意味では同じであり、したがって、「休み時間」も「休憩時間」であるが、学校において「休み時間」というと、児童生徒に与えられる「休憩時間」のことであり、それに対して、「休憩時間」は教師に与えられる休みの時間である。子どもにとっては、「休み時間」も「休憩時間」も授業を受けていない時間という意味で同じであるが、教師にとっては、実態はともかく、制度的にいうならば、「休み時間」は労働時間であるのに対して、「休憩時間」は労働時間には算入されない時間である。

「休み時間」における子どもの行動・活動や意識などを調査研究しようと思いいたったのは、学校を教えるところから学ぶところにコペルニクス的に転換をしようというのであれば、子どもが学ぶ時間をトータルにとらえなくてはならないのではないだろうか、という問題意識からである。

ところで、教育の時間は教師が教授活動を行っている時間であるから、可視的であり測定可能である。その量を何時間何分というように示すことができる。そうでない時間との境界が明確である。内と外がはっきりしている。その意味で教育時間は切り売りのできる時間であり、したがって「持つ」ことのできる時間である。

それに対して、子どもが学ぶ時間は、子ども一人ひとり違っており、時間は同じでも学んでいる内容はまちまちである。学んでいる時間と学んでいない時間との境界は不明確である。どこからどこまでが学んでいる時間であり、学んでいない時間であるかを明確に示すことは難しい。教室から廊下・グラウンド、さらには家庭・地域と野外までの広がりを持つ時間であるが、そこに明確なボーダーラインを引くことはむずかしい。学ぶ時間には「ゆらぎ」があるといういい方もできるであろう。したがって、学びの時間は量として示すことは困難であり「持つ」ことのできない時間である。そこに「ある」時間である。

この「ある」時間がいわば学習の時間として自己組織化されることがこれからの教育の課題であろう。こんな問題意識から、「休み時間」の調査研究を開始したのであるが、どういう方法で行えばよいのかは、先行研究は皆無に等しく、手探りである。こうした観点での研究がこれまで行われなかったことは不思議にも思えるが、それは学校は教えるところという学校観がいかに強固であったかを示すものであろう。