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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第34回

教育愛

「持つ」愛ではなく「ある」愛を

教師には教育愛が必要だということは、古くからいわれてきたことであるが、教育愛とは何かとあらためて問われるとだれしも即答に窮することであろう。しかし、21世紀を迎えて、まず教育にかかわる者が思いをいたすべきは、教育愛とは何かということではないだろうか。わが子を泣いてうるさいからと首をしめてしまう親がいる。親の子への愛も含めて考えてみなくてはなるまい。

教育愛というのは、一般的には教育者、特に教師の被教育者、特に生徒に対する愛を指しているといってよいであろうが、これは単にかわいがるということではないことはいうまでもない。愛のタイプとしてよくエロス、アガペー、フィリアの3つがあげられる。エロスは文化の基礎としてプラトンによって、アガペーはキリストの教えに打たれたパウロによって、また、フィリアは倫理の基本的形態としてアリストテレスによって原理的な基礎が築かれた。

内容的にいうと、エロスは神に対する人の愛のように、理想のようなより価値の高いもの、すなわち下から上に向かう愛、アガペーは神から人へというように、上から下に向かう愛、フィリアは、友愛とか夫婦愛のようにお互いに平等な人格として愛しあう愛である。

このような愛の3タイプとの関係でいえば、教育愛はアガペーということになろう。しかし、教育は価値の実現にかかわる営みであるから、教育にかかわる者には、実現すべき価値についての愛、すなわちエロスがなければならないということになる。また、教育を単に成熟した成人世代が未成熟な子ども世代に対する方法的な社会化というようにとらえるのではなく、共に学ぶ関係としてとらえるならばフィリアという愛が重要であるということになるであろう。要するに、教育愛はエロス、アガペー、フィリアという3つの愛が総合されたものでなければならないということになろう。

この3つの愛の総合ということを、少し違った観点から考えてみよう。エーリッヒ・フロムが、『生きるということ』において、「愛が持つ様式において経験される時、それは自分の<愛する>対象を拘束し、閉じ込め、あるいは支配することの意味を含む。それは圧迫し、弱め、窒息させ、殺すことであって、生命を与えることではない」と述べている。フロムは具体的には夫婦の間の愛を例にあげており、教育愛については特に言及してはいないが、3つの愛を総合した教育愛は、このような「持つ」様式の愛から解放された愛ということになるのではないだろうか。

教師や親は、子どもをよい点数をとれるかどうか、所期の学校に進学できるかどうか、よい職に就くことができるかどうかという観点から拘束し、閉じこめ、支配しているのではないだろうか。先年、自分の子どもが有名幼稚園に合格できなかったことから、合格した知りあいの子どもを母親が殺害するというショッキングな事件が起きたが、これはまさに「持つ」様式における愛の象徴ではないだろうか。

件の母親は、わが子を真に愛していたから不合格を悲しんだのではないであろう。自分の子どもが有名学校に通うことを、きれいな洋服や高価な指輪と同じように、いわばステイタス・シンボルと考えていたのであろう。洋服や指輪は金を払えば手に入れることができるのに対して、有名幼稚園生というステイタスは金で買える物ではない。しかし、この母親は、有名幼稚園生をも洋服や指輪と同じように「持つ」対象として考えていたということであろう。

これは単に親の問題としてではなく、学校教育における問題として受けとめなくてはなるまい。いま体験を重視した教育が叫ばれているが、教師や親と子どもとの人間的ふれあいの体験が何をおいても重要ではないだろうか。そうでなくては真の愛、「持つ」愛ではなく「ある」愛は生まれないであろう。