ホーム>ゆとりの学び ゆとりの文化 第35回

ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第35回

リカレント教育

寄り道こそ「生きる力」

生涯教育とか生涯学習ということばが登場して30余年がすぎた。最初に提唱したのはユネスコであるが、当初しばらくは障害者の教育と混同されたりして、何のことだろうといぶかる人が多かった。最近は、市町村ごとにそれを活発に推進するようになり、それを聞いたことがないという人は少ないであろう。しかし、リカレント教育となると知る人はあまりいないであろう。実は、これは生涯教育の一つのありかたを示す言葉で、1970年代初めにOECD(経済協力開発機構)が提唱したものである。

 

教育を繰り返すゆとり

これまでの学校教育は、その長さは人によって異なるにしても、人生の早い時期に集中して行われるのが普通であった。学校教育のような組織だった教育は人生において1回しか行われなかったのである。若い時に何らかの事情で上級学校に進学できなかった者に、それを取り戻すゆとりはなかった。

これまでの学校教育は、その長さは人によって異なるにしても、人生の早い時期に集中して行われるのが普通であった。学校教育のような組織だった教育は人生において1回しか行われなかったのである。若い時に何らかの事情で上級学校に進学できなかった者に、それを取り戻すゆとりはなかった。

国の政策として提言されている生涯学習社会を本当に実現しようというのであれば、義務教育がそれを受ける子女にとっては権利であるのと同じように、社会人の場合にも学校に戻るなど、教育を繰り返すことを権利として保障していくことが必要ではないだろうか。政府は税金を国民に戻そうというのであれば、教育切符のような形も考えてほしいものである。

国の政策として提言されている生涯学習社会を本当に実現しようというのであれば、義務教育がそれを受ける子女にとっては権利であるのと同じように、社会人の場合にも学校に戻るなど、教育を繰り返すことを権利として保障していくことが必要ではないだろうか。政府は税金を国民に戻そうというのであれば、教育切符のような形も考えてほしいものである。

近代的な学校の発展のなかでは、「繰り返す」ことは標準からの逸脱とみなされてきた。同じ学年を繰り返す者(英語では、そのままリピーターという)には落第者とか原級留置者というレッテルが張られてきた。二度目の学級は留置場のようなものである。

 

だれもが自分のペースで学習できる社会環境

これまでの教育では、それを修了する標準的な時間や期間が決められ、それにしたがって常に前進することが正常であると考えられてきた。これは科学技術の発展などによって社会は進んでいくものだという進歩観の反映であるといえるであろう。いまわれわれが払拭しなくてはならないのは、このような進歩観ではないだろうか。

最近、中央教育審議会は、理科系の特別に優秀な者は、高校2年から大学に入学できる道を開き、千葉大学がさっそくそれを実施したが、これはあくまでも「例外措置」である。つまり、高校教育は3年が標準であり、それより早く進む者は例外というわけである。

逆に、わが国では、高校3年を修了してただちに進学に成功しなかった者は浪人と呼ばれている。イギリスでは、進学が決まるまで正規の生徒として中等学校に在学することができるが、わが国では、学校に決められた期間より長く在籍するには単位を意図的に落とさなくてはならない。

これからは、早く進むは秀才、遅く進む者は落後者というのではなく、だれもが自分のペースで学習できるゆとりある社会環境をつくりたいものである。

早く進むより、ゆっくり寄り道をするほうが「生きる力」はつくであろうし、そのほうがひらめきのある天才も生まれるに違いない。これまでの天才の生涯はそのことを物語っている。