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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第36回

制 服

子どもの主体性尊重

これは制服を導入している、О県のある公立小学校の話である。制服メーカーが倒産したのを機に制服の廃止について、保護者にアンケートをとったところ、反対派のほうが賛成派を上回る結果が出たという。学校としては、服装の自由化に踏み切ろうと考えていたようであるが、保護者の支持を得られず、結局、制服は続けられることになったのである。

公立小学校の制服着用率が9割近い同県では、制服自由化を推進する市民グループがあるというが、その会員は250人ぐらいで、保護者の大多数は、制服を廃止すると、子どもたちは無軌道に走るのではないかという不安を抱いているのであろう。

 

規律への服従を強いる

一般的に、制服は、組織や集団などにおいて、その構成員の意志統合や規律への服従などを醸成するために、その組織や集団のなかにいるときには着装を義務づけられる服装で、そのような組織の代表としては、軍隊、警察、刑務所をあげることができる。

学校の場合には、多くの開発途上国におけるように、教育の無償性の一環として制服の支給を行っている例もあるし、先進国の場合でも、服装が華美に走るのを防ぐので経済性に富んでいるとする論もあるし、児童生徒の服装競争が起きた場合、経済的に恵まれない家庭の子どもがかわいそうだといった理由があげられることもある。しかし、一般的にいえば、学校の制服も、他の組織・集団の場合と同じように、成員の思考や行動を、画一的な方向に水路づけることを目的として着用を義務づけることが慣行化してきたといってよいであろう。

いったん慣行化したことを改めることには大きなエネルギーが必要であろうが、個性尊重、選択能力の育成、生きる力とゆとり、といったキャッチフレーズのもとに推進されている現下の教育改革を実現させるには、服装に象徴されるようなさまざまな校内ルールを柔軟な方向に変えることも重要であろう。

中教審や教育課程審議会の提言は、教育の体系や教育課程についての改革が中心で、学校内の規範のありかたについてはほとんどふれられていないが、これは、いまの学校改革で最も重要な側面ではないだろうか。

 

服装にも個性尊重を

ところで、制服についての論は、常時着用が廃止かのいずれかといった二者択一であることが多いが、もう少し各学校の創意工夫があってしかるべきである。

一般社会においては、冠婚葬祭のような特別の行事の際には、慣行にしたがった服装が着用されるのが普通であり日常は自由である。学校では、制服のある場合には、学校内と登下校時にはその常時着用が義務づけられているが、一般社会と同じように、入学式、卒業式といった行事だけに制服を着用することにし、普段は自由化したらどうであろう。

普段も制服を着用させるのであれば、制服に子どもの個性を発揮できる部分を残すようにするのも一案である。スカートやズボンは共通にし、上着のほうは自由にしたり、いくつかの選択肢を設けるというやりかたも考えられる。実際にこれを実践している学校はけっこうあるようであるが……。教科に必修教科と選択教科があるように、服装にも必修と選択を設定するわけである。

要するに、服装も教育の目的を達成するためのカリキュラムとして考えることが肝心だということがいいたいのである。

制服は、また、「自由にするとお前たちは悪に走る危険性がある」という不信のメッセージを子どもに与えているのではないだろうか。制服柔軟性は、子どもの選択能力を培うだけでなく、自分たちは信頼されているという、生きる力の土台ともいえるものを与えることにもなるであろう。