ホーム>ゆとりの学び ゆとりの文化 第37回

ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第37回

パフォーマンス

“学校体制”への抵抗

家庭で、職場で、友人との世間話のなかで、パフォーマンスが話題となるようになった。たとえば、「あいつはパフォーマンスで点を稼いでいる」といったふうに。

このことばは英語で、英和辞典によると、第一に「すること」「実行」、第二に「仕事」「成就」、第三に「演劇」「演技」などのことであると説明されているが、最近、流行しているのは「演技」という意味に近いであろう。芸術家が身体を使って表現する方法、さらにそれによって生まれる芸術をさすとも定義されている。

 

既成の体制に抵抗する身体的表現

しかし、これが注目されるようになったのは、「演技」一般ではなく、特別な芸術のジャンルをさすことばとしてである。たとえば、街頭で一人で行う演技などである。それは既成の制度や体制とは違ったものを訴えようという前衛的な行為である。大きな劇場に象徴される大きな既成の体制に抵抗して、演技の新しい空間を創造しようという行為である。

冒頭に述べたように、一般的には、人目を引くような言動によって、まわりの人々を驚かし、話題を集めることをさして使われている。そこには、実力がともなっていないという批判が言外にこめられている。しかし、芸術の分野では、むしろ新しい表現方法の創造というプラスの意味あいで使われているのである。

 

教育では成就という意味で使われている

ところで、パフォーマンスということばは教育の世界では古くから使われている。しかし、それは辞典が第三の意味として説明している「演技」ということではなく、第二の「成就」といった意味においてである。すなわち、教育の世界では、能力とか適性のようにあらかじめ個人のなかに潜んでいるものではなく、努力などによって達成したもの、成し遂げたもの、すなわちアチーブメントという意味においてパフォーマンスということばが使われてきたのである。具体的には、学力試験=アチーブメント・テスト(日本では、ア・テストなどと略称されている)によって測定されるものといった意味で使われてきたのである。

体育、美術、音楽などの教科もあり、教員養成系の大学では入学試験で実技試験も行われてはいるが、全体としてみれば、パフォーマンスはペーパー・テストで測られる面が重視されている。

 

子どものパフォーマンスを認めよう

右に述べたように、教育の世界では、成就という第二の意味でパフォーマンスということばが使われてきたが、いま学校で生じているさまざまな問題の根源は、こうしたゆとりのないパフォーマンス観にあるように思えてならない。

教室を歩き回る子、わめく子など、学級を崩壊させているといわれる子どもの言動が問題になっているが、これは静かに机に座って教師の教えることを素直に聞く子を「よい子」と高く評価し、身体的表現という意味でのパフォーマンスを評価してくれない現代の学校への反逆であろう。

そうした言動をとる個々の子どもの意図はさまざまかもしれないが、総じてみれば、既成の学校体制への抵抗という意味があると解釈できるのではないだろうか。授業での教師の教えかたを向上させたり、マルチメディアを導入すれば問題は解消するという見解もあるようであるが、問題はそんな次元だけで解決できるような単純なものではなかろう。もちろん、問題になっているような子どもを持ちあげようという気持ちはさらさらない。かれらに自分の言動を正当化する根拠を与えるようなマスコミの報道には慎重でなくてはならないとも考えている。

主張したかったことは、子どもたちの、おとなの目からは困ったものだと思われるような言動も、問題行動とか不適応と断定してしまうのではなく、新しい文化を創造する新しい身体的表現への萌芽であり、それを認めてほしいというおとな社会への訴えであると考え、それをも実力とみなす「心のゆとり」をおとなが持たなくてはならないということである。