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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第39回

放棄学習

進歩追求は一面退歩

経済学に放棄所得ということばがある。あることをしなかったら得られたと思われるのに、あることをしたためにそれを放棄した所得という意味である。たとえば、高校卒業後ただちに大学に進学した場合、就職していたら得られたであろう所得を放棄していることになる。これが放棄所得であるが、かつてシカゴ大学に留学していたおりの恩師故アーノルド・アンダーソン先生と奥さんであるボーマン先生は、それをもじって放棄学習ということばをつくられたのである。あることを学習することは、別の学習を放棄することだという意味である。さらに敷衍(ふえん)していえば、ある学習をすることによって、われわれはそれまで持っていた能力を失うということでもある。

こういうことはだれしも思い当たることが多いであろうが、さる8月2週間であったが、理数系の中等学校教員の現職教育強化にかかわる仕事でケニアに滞在していて、そのことをあらためて実感した。首都ナイロビの治安の悪化、国家財政窮迫による地方の学校の教育条件の劣悪さなど、文明の進んだといわれる国の目でみると問題は山ほどある。その解決にはまだ長い道程をたどらなくてはならないであろう。

 

双眼鏡のような目

しかし、そうした問題の表皮の奥には、文明が進んだといわれる国々やその人々が、進んだ文明を学習し獲得する過程で放棄してきたものが脈々と生きているように感じられたのである。青年海外協力隊員の報告書を読んでいたら、ケニア人は双眼鏡のような目を持っているという文章に出くわした。これまでも読んだり聞いたりしたことのあることではあったが、そこで思ったことは、それは物理的に遠くの小さなものを肉眼でみる視力の高さだけではなく、対象を個としてとらえる能力の高さへの驚きのことばでもあるのではないかということである。

フランスの社会学者レヴィ・ブリュルは、未開社会と呼ばれる社会の人々は、4、5、6……などの抽象的な観念を持っていないが、自分の飼育している何十頭あるいは何百頭もの牛や馬やヤギなどが一頭でもみえないと、そのことをたちどころに発見してしまうことを『未開社会の思惟』(山田吉彦訳、岩波文庫)のなかで指摘している。このことは羽仁進さんも、アフリカで泊まった現地人の家で目の当たりにみたこととして書いておられたように思う。

かれらは頭数をいちいち数えて不足を把握しているのではない。かれらは対象をその形や色や大きさなどの特殊性=個性によって把握するのである。つまりかれらは数概念は持たないが個体識別能力に優れているということである。というより、かれらは数概念を学んでいないために、個体識別能力を保持しているといったほうがよいであろう。

 

放棄してはならない個体識別能力

一方、文明社会の人々は数概念を獲得したために、そのような能力を放棄してしまったが、文明社会であっても幼児は高い個体識別能力を持っている。おそらく視力も優れているに違いない。数多くのミニカーを持っている幼児が、数を数えることができないのに、一つでも足りないとすぐにそのことを発見し泣き出す場面を想起するなら、そのことがよくわかるであろう。

こうした子どもの姿は親には天才と映るかもしれないが、かれらは数概念を学習していくなかで、しだいにそういう能力を放棄し凡人になっていく。われわれはそれを進歩・成長と評価するが、これは手放しで喜んでよいことだろうか。失っていく能力を高く評価する立場にたてば、それは進歩ではなく退歩ということになるのではないだろうか。

といって数を数えられるようにならなくてもよいなどと主張するつもりはない。放棄学習をなくすにはどうしたらよいかを、教育の問題として真剣に考えなければならないということをいいたかったのである。ひたすら進歩を追求するのではなく、それが一面では退歩であることを認識することが教育にかかわるものにとって何よりも重要な課題であろう。

いまわが国の教育改革では「ゆとり」が合い言葉になっているが、ケニアへの旅はその重要性をあらためて認識させてくれた。