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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第41回

観 賞

より多く「持つ」ことへの執着

山や野を歩いていると、さまざまな草花を路傍に発見する。しかし、その草花に対する反応は人さまざまであろう。

たたずんで、ただじっと眺める。ノートを取り出して一句したためる人。根から引き抜いたり、茎から切り取ったりして家に持ち帰り、庭に植えたり、花瓶にさしたりする人。植物図鑑などと照合しながら、花びらの数を数えたりする人。さらには、虫めがねを取り出して、肉眼ではみえないところをみようとする人。

いずれも草や花を理解しようとしているという点では共通している。しかし、その理解の方法は人さまざまである。具体的には、右にあげたもの以外にも、数多くの方法があるであろう。しかし、よく考えてみると、それらの方法は二つに大別することができるように思われる。

一つは咲いている姿を、その場所でそのまま全体として「美しい」と直感的に感じる方法。もう一つの方法は、咲いている草や花を、引き抜いり切断して分析するという方法である。

この二つの方法は、二つの点で根本的に違っている。まず第一の違いは、観賞しようとする対象に対する態度の違いである。前者は、全体を部分の総合としてではなく全体を全体として直感的に理解しようとしている。それに対して、後者は部分を細かく分析的に理解しようとしている。これは自然科学的な方法ということもできるであろう。

第二の違いは、前者がその草花の美しさを分かちあおうとしているのに対して、後者はその草花を自分で一人占めしようとしていることである。

このような二つの違いは、一見全く次元の異なる違いのように思われるかもしれない。しかし、この二つの違いは深く関連しているのである。

草花という対象を離れて、「理解しようとする対象」として一般的に考えてみよう。自然科学的方法の発達によって、産業の発展が可能になり、われわれの生活は物質的に豊かになった。これを別の観点からとらえるならば、自然を科学の力でコントロールすることによって、われわれは多くの物を自分の物として「持つ」ことができるようになったということである。さらにいうならば、自然科学的方法の発達によって実現した産業の発展によって、われわれはより多くの物を「持つ」ことに執着するようになったのである。物ではないものをも物として考え、それをもより多く「持つ」ことに執着するようになったのである。そしてそのことによって、自己の存在を主張しようとするようになったのである。

ここで重要な点は、ある人がより多く「持つ」ようになれば、他の人はそれだけ少なくしか「持つ」ことができないということ、ある人が存在を主張できるようになると、その分だけ他の人の存在が小さくなるということである。

いっぽう、対象を「ある」がままで全体として理解しようとする場合は、そのもの、たとえば花を理解することによって、自分が高まる。しかし、そのことによって他の人が高まる可能性を奪うことにはならない。

以上に述べたことからわかるように、二つの対象理解の方法は、われわれの生かた、ありかた、すなわち文化の違いを象徴的に示すものではないだろうか。しかし、この二つの文化は異なる世界にあるのではない。われわれの生活、心のなかに同居している。問題はどうも「持つ」文化のほうが力が強くて、「ある」文化を追い出そうとしていることだ。

山の雪も解けるころ、家族そろっての山菜とりは楽しいものである。しかし、最近は山菜を根こそぎとりすぎてしまい、次の年には芽が出なくなってしまうといったことを耳にする。山に住む動物が食べ物を人間に奪われて人間の畑を荒らすようになっている。

「ある」文化を取り戻すにはどうしたらよいだろう。日本文化にはもともと「ある」文化が伝統してあるのであるから。