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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第43回

余 暇

生活全体に精神のゆとりを

現代は余暇社会であるともいわれるが、余暇社会とはどのような社会なのだろうか。というより、どのような社会としてとらえたらよいのだろうか。

ユネスコは1976年にケニアの首都ナイロビでの第19回総会において、生涯教育の観点にたって「成人教育の発展に関する勧告」を採択しているが、その前年、勧告の草案を検討するための専門家会議がパリで開かれ、わたしは日本からの代表という形でそれに出席した。いまでもおりにふれて思い起こされるのは、そのとき、余暇のための教育、すなわち、余暇教育の重要性をもっと強調すべきだというわたしの発言に対するインドの代表の反論である。

右のような発言は、日本を発つにあたって通産省とか労働省などの関係省庁の意見に照らし、文部当局と相談の上で行ったのであるが、インド氏は、余暇教育の強調は先進国の発想であり、インドをはじめとするいわゆる発展途上国においては、余暇を考える余裕はないし、インドでは死のための教育こそ重要だと考えられているという趣旨で反論したのであった。

この発言はわたしにとっては予想外であり、不意をつかれた感じであった。ほかの参加者からの発言もほとんど出なかったので、不意をつかれたのはわたしだけではなかったのであろう。しかし、これはその後ずっと、気になる論点として、わたしの心を離れずに残っている。生涯教育・生涯学習の意義、それとの関連における余暇の意義を考える上で、本質に迫る重要な問題提起であったのではないかという思いからである。

わが国は戦後、世界からエコノミック・アニマルと酷評されるほど労働に精魂を込め、世界から驚嘆されるほどの経済復興を達成したが、ようやく日単位、週単位、年単位での労働時間が減少し、余暇時間が増大する傾向がみられるようになってきた。また、寿命の延長によって生涯単位での余暇時間が増大している。余暇教育の強調は、このようなわが国の状況を背景としたものであった。

しかし、このような余暇は、労働時間の多少によって少なくもなり多くもなるという性質のものである。すなわち、それは労働時間に依存して「持つ」ことが可能となる時間である。インド氏の発言は、これとは別の余暇のとらえかたの提起だったのではないだろうか。

マックス・ウェーバーは、プロテスタントの研究によって、利益を正当化するものは労働であり、社会の役にたたない活動は第二義的なものであるという精神(倫理)が資本主義の発展に寄与したことを明らかにしたが、このような精神にしたがえば、労働時間を除いた余りの時間は社会の役にたたないということになる。「持つ」余暇は、労働を支える限りにおいて許される程度にとどめておくべきだということになる。

しかし、人間はパンのみにて生きるのではないということを想起するならば、このような余暇観は問題である。もちろん、労働時間を減少させ、「持つ」余暇を増やすことも重要であるに違いない。しかし、より重要なことは、労働をも含めた人間の生活全体の基礎となる基本的な精神としての余暇ではないだろうか。「持つ」余暇に対して、これは「ある」余暇である。プラトンなどの古典哲学の研究者として著名なヨゼフ・ビーパーはこのような余暇を「聖なるものとしての余暇」と呼び、それは「忙しく働き回るのではなく、あるがままに受け入れる無為の態度-静寂を前提としている」といっている。

余暇のことを英語でレジャーというが、これは「持つ」余暇であるといってよいであろう。この種の余暇はいまでは日本人の生活に深く浸透している。しかし、わが国には、イトマ、ヤスミ、イコイといった余暇に相当する言葉が古くからあるが、これは「ある」余暇の文化を象徴するものであろう。

わが国がエコノミック・アニマルの汚名を返上するためには、この伝統を回復しなければならないのではないだろうか。