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ゆとりの学び ゆとりの文化 -21世紀の学習文化- 新井郁男

平成10年から12年まで新潟日報に「ゆとりの文化」というテーマで連載した小文と、平成5年から平成12年まで野外文化研究所の機関紙に「『持つ』文化と『ある』文化」というテーマで連載した小文を、平成13年にエッセー集としてまとめて、『ゆとりの学び、ゆとりの文化―21世紀の学習社会―』というタイトルで教育出版から発行しました。今回のこのシリーズは、そのなかから現下の教育改革、教育課程改革と関連のあるものをピックアップしていきたいと思います。出版後、新たな改革が進められつつありますが、筆者の考え方は特に変わっていませんので、特に変更などをしないで掲載いたします。現下の改革などに照らしながらお読みください。ご興味のあるかたは著書もお読みいただければ幸いです。

【著者紹介】
新井郁男(あらい いくお)

1935年長野県生まれ。1959年東京大学教育学部卒。文部省(現文科省)、国立教育 研究所、東京工業大学、上越教育大学、愛知学院大学、放送大学などで教授などを歴任。 現在は、上越教育大学名誉教授、星槎大学特任教授。

 
 

第44回

権 威

「昔の名前」ではなく「昔とった杵柄」で

退職したかつての上司が訪ねてきたのに、かつての部下は見向きもせず、腰もあげず、知らん顔という場面に遭遇することがある。そこにはいやな奴が来たといった雰囲気が漂っていることが多い。研究機関や大学などの事務局でもみられる光景である。かつては自分たちに命令を下していた課長も部長も。退職してしまえばただの人というわけである。ただどころかいやな奴、煙たい人になってしまうということである。

これは一組織のなかにだけみられる現象ではない。社会全体にみられる。社会はいま高齢化がますます進行している。人生80年時代だといわれる。しかし、上司でいられる期間が長くなっているわけではない。定年が過ぎると、とたんにかつての権威は低下してしまう。

大学の教師のように、定年をすぎ、公職から離れても、先生と呼ばれ、権威を維持している職業もある。しかし、社会全体としてみると、人生の延長は権威の延長にはなっていない。むしろ人生は延長しても、権威のある存在でいられる期間は相対的に短くなっているといってよいであろう。

家庭においても、父親の子どもに対する権威はおしなべて失墜している。

権威とは、他者に対して優越した価値を保持していることがまわりから認められ、かつ他者の行為を左右する意思決定を下すことができる力のことであるが、このような力は、個人自身が持っている知識や技量などの特殊な能力に由来する場合もあれば、組織や集団のなかで制度化された地位に付属したものである場合もある。

権威にはこのように二つの場合があるが、いずれの場合も、権威の保持者の命令に他者がしたがうのは他者がその権威を承認しているからであろう。権威がたとえ部長とか父親といった地位に付属したものであっても、それが他者の行為を左右できるのは、部長や父親がそれにふさわしい権威を体現していると認めているからであろう。すなわち、権威に人々がしたがうのはいやいやではなく、自発的であるといってよいであろう。

しかし、部長の命令に部下がしたがっていても、それが自発的であるとはかぎらない。不承不承の服従も多いであろう。この場合は、部下は部長という人物のなかにそなわっている権威というよりは、部長という地位の権威にしたがっているのである。社会学では後者の場合は権威(オーソリティ)と区別して権力(パワー)と呼んでいるが、権威には二つあることがわかる。一つは人間のなかにそなわって「ある」権威であり、もう一つは、地位につくことによって「持つ」権威である。「ある」権威は、地位とは無関係に、あるいは地位を離れても、他者からの承認が失われない権威であるのに対して、「持つ」権威のほうは、地位につくことによって所有し、地位からの離脱とともに、あらたに地位につく者に譲り渡される権威である。

退職後にかつての職場を訪問して冷たい目で迎えられるのは、その権威が「持つ」権威であったからであろう。課長時代に課長風を吹かせて威張っているだけで、管理職としての能力は認められていなかったからであろう。

ここでわれわれが考えるべきことは、右のようなことが、一課長のパーソナリティだけに帰せられるべき問題ではなく、現代社会の官僚制化という問題に根ざしているところが大きいのではないかということである。単に、大学の事務局といった一役所だけの問題ではなく、社会全体の問題だという点に、われわれは思いをいたす必要があるのではないかということである。

現代社会においては、複雑で大規模な組織の目的を能率的に達成するため、組織の活動が合理的に分業化され、人間関係が非人格化されるという意味での官僚制化が社会生活の公私の領域で進行している。「持つ」権威が「ある」権威を凌駕しつつある。学校においても、機会の平等化という善意に発することかもしれないが、校長は短期間をサイクルとして異動する。これは学校組織の非人格化をもたらす一つの象徴であろう。

高齢化社会は、だれもが昔の名前=「持つ」権威ではなく、昔とった杵柄=「ある」権威で共に生きる社会でなければならないのではないだろうか。