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行政からみた戦後教育史 菱村幸彦
菱村幸彦

【PROFILE】
菱村幸彦(ひしむらゆきひこ)
京都大学法学部卒。文部省に入り、教科書検定課長、高校教育課長、総務審議官、初等中等教育局長、国立教育研究所長、公立学校共済組合理事長、駒場東邦中・高等学校長などを歴任。
現在、国立教育政策研究所名誉所員、一般社団法人日本図書教材協会会長。
〔著書〕『やさしい教育法規の読み方』(教育開発研究所), 『はじめて学ぶ教育法規』(同上), 『教育の窓・法律の窓』(小学館), 『戦後高校教育史』(学事出版), 『私のリーダー論』(日本教育新聞社), 『私の校長学』(学事出版), 『戦後教育はなぜ紛糾したか』(教育開発研究所)など多数。

 

この連載は、ジアース教育新社刊「文部科学 教育通信」に2017年8月より連載されているシリーズを転載しています。

第3回

家永裁判とは何だったのか <上>

昭和31年に教科書検定制度が整い、検定審査が綿密に行われるようになると、教科書執筆者から不満が出るようになった。特に社会科教科書については、政治的中立性の観点からのチェックが厳しいというので、革新系著者からの批判が強まった。その代表例が家永教科書裁判である。

 

家永裁判には三つの訴訟がある

家永裁判といえば、広く知られた有名な裁判だったが、今では話題に上ることもない。最近、若い人と話していて、「家永裁判」を口にしたら、「それ、歴史の授業で習いました」という。家永裁判も歴史上の出来事になったかと、あらためて時の流れを感じた。

家永裁判は、1960年代後半から1980年代にかけて、メディアをにぎわすホットイシューだった。その裁判に、私は担当補佐、担当課長として7年、その後も審議官、局長として、合わせて13年も関わった。家永裁判の判決は10あるが、私は、そのうち6つの判決に現場で立ち会っている。

家永裁判の判決が10もあると聞くと、けげんに思われるかもしれない。実は一口に家永裁判というが、これには三つの訴訟があった。それぞれが地裁、高裁、最高裁で争ったので計9判決、それに高裁差し戻し判決が加わって、全部で10になる。

三つの訴訟の経緯は、こうだ。まず、原告(家永三郎東京教育大学教授)は、昭和40年に自著の高校教科書『新日本史』の検定処分が違憲、違法として、国を相手に東京地裁に損害賠償訴訟を起こした(1次訴訟)。次いで、翌年、すでに合格していた『新日本史』について改訂検定を申請した上、申請の一部が認められなかったのを不服として行政処分取消訴訟を起こした(2次訴訟)。さらに、それから16年後、昭和59年に前年度の改定検定で検定意見を付されたこと等により精神的苦痛を受けたとして、損害賠償訴訟を起こした(3次訴訟)。

なぜ、三つもの裁判を起こしたのか。そこには原告の戦略があったようだ。つまり、民事訴訟だけでは不利と見て、行政訴訟を追加し、さらにそれを補強するため、検定側の弱点を捉えて3次訴訟を起こしたと思われる。

 

検定で指摘された323の欠陥

教科書裁判の本来の争点は、原告の教科書原稿に付された検定意見の適否である。で、まず、検定の実態から見ておこう。

原告が検定申請した『新日本史』の原稿には、検定で320箇所にわたる欠陥が指摘された。原告は、法廷でこれらの欠陥について、①思想審査にわたるもの80件、②瑣末などうでもよいもの136件、③文部省の誤り5件、④原告の誤り99件と自ら分類している。

自ら誤りと認める箇所が99もあるということは、それだけでも教科書としての適格性を欠く。さらに「どうでもよいもの」や「文部省の誤り」は、原告がそう主張するだけで、客観的に欠陥であることに変わりはない。

ただし、法廷で争われたのは、「思想審査にわたるもの」の適否だった。ここでその詳細を示す紙幅はないが、一例だけ挙げよう。

原告の申請教科書に「記紀」について「古事記も日本書紀も神代の物語から始まっているが、神代の物語はもちろんのこと神武天皇以降の天皇数代の間の記事に至るまで、すべて皇室が日本を統一してのちに、皇室が日本を統治するいわれを正当化するために作り出した物語である」とする記述があった。

検定では、「これでは記紀の記述をそのまま歴史と見ることができない点のみが強調されていて、記紀が古代の文献として有する重要な価値について説明されていない。しかも神話はすべて皇室の統治のための政治的造作物だと断定している。このような記述は、高校日本史の目標に照らして不適切である」という意見が付された。裁判所は、この検定意見を適切と認定している。  - つづく - 

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