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行政からみた戦後教育史 菱村幸彦
菱村幸彦

【PROFILE】
菱村幸彦(ひしむらゆきひこ)
京都大学法学部卒。文部省に入り、教科書検定課長、高校教育課長、総務審議官、初等中等教育局長、国立教育研究所長、公立学校共済組合理事長、駒場東邦中・高等学校長などを歴任。
現在、国立教育政策研究所名誉所員、一般社団法人日本図書教材協会会長。
〔著書〕『やさしい教育法規の読み方』(教育開発研究所), 『はじめて学ぶ教育法規』(同上), 『教育の窓・法律の窓』(小学館), 『戦後高校教育史』(学事出版), 『私のリーダー論』(日本教育新聞社), 『私の校長学』(学事出版), 『戦後教育はなぜ紛糾したか』(教育開発研究所)など多数。

 

この連載は、ジアース教育新社刊「文部科学 教育通信」に2017年8月より連載されているシリーズを転載しています。

第4回

家永裁判とは何だったのか <下>

教育行政全般に広がった争点

家永裁判の最大の特色は、争点を検定意見の適否にとどまらず、戦後における教育行政全般の当否に広げたことにある。

家永氏は、昭和44年の日教組の第18次教研集会の講演で、「(教科書裁判は)国家権力と教育との根本問題を問う訴訟であります」と述べている。つまり、氏の意図は、教科書裁判を国の教育行政に対する挑戦と位置付け、単に法廷闘争だけでなく、広く国民運動として展開することにあった。

事実、家永裁判の提訴と同時に、歴史学者の支援会が結成され、出版労協を中心に全国的な支援連絡会が組織された。日教組も運動方針で家永裁判の支援を表明した。さらに、全国各地に支援体制を組織し、機関紙「教科書裁判ニュース」を発行し、教科書裁判をテーマとするシンポジュムを開くなど、全国的に国民運動を展開した。

法廷では、国は教育内容に関与し得るか、検定は表現の自由や学問の自由を侵害するか、学習指導要領に法的拘束力があるか、教師は教育の自由を有するか――等々について、法学、教育学、歴史学などの観点から、その是非を問う論争の場となった。そして、その立証活動のため、原告・被告あわせて延べ140人をこえる研究者や現場教員が証言台に立った。

 

実りのない不毛な争いだった

こうした国民運動が最高潮に達したのは、昭和45年7月17日に東京地裁で第2 次訴訟について「杉本判決」が出たときだった。家永裁判で最初に出された判決である。杉本判決は、「国の教育権を否定し、国民の教育の自由を認めた」というので、大きなニュースとなった。当日の夕刊は、各紙とも一面トップで、あたかも国の教育行政が根本から否定されたかのような報道を行った。

しかし、その後、杉本判決は、裁判所自身の手で次々と否定されて行く。まず、杉本判決から4年後の昭和49年7月16日に1次訴訟について東京地裁の判決が出て、杉本判決の考え方を否定した。次いで、昭和61年3月に1次訴訟の上級審である東京高裁の判決があり、ここでも杉本判決を否定した。さらに、平成5年3月に1次訴訟の最高裁判決が出て、杉本判決の考え方を全面的に否定した。

ここで三つの訴訟について最高裁が下した最終的な判断を整理しておこう。最高裁判決は、1次訴訟と2次訴訟とも、検定制度は合憲であり、検定意見に違法はないと判示した。国側の全面勝訴である。ただし、3次訴訟については、検定制度は合憲だが、4件の検定意見に裁量権の逸脱があるとして、国に40万円の損害賠償を命じた。

すでに述べたように、原告は、教科書制度の違憲論からはじまって、国の教育権限の否定まで幅広い教育権論争を展開したが、最終的に最高裁判決で、原告の考え方は否定され、国は教育内容に関与する権能を有する、教科書検定は違憲でない――というごく常識的な結論で終わった。30年間争って、振り出しに戻ったわけだ。

家永裁判が終結したのは、3次訴訟の最高裁判決が出た平成9年8月29日。この日、私は国立教育研究所長を最後に38年にわたる公務員生活を終えた。当日は花束を手に静かに職場を去るはずであったが、夕方遅くまで、メディアの取材を受け、あわただしく過ごした。新聞記者から「家永裁判は何だったか」と問われて、「不毛な争いだった。この裁判によって教育界に実りをもたらしたものは何もない。これからの教育論議は法律の用語ではなく、教育の言葉で穏やかに話し合いた」(同年8月30日付け朝日新聞)と答えた。

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