ホーム>行政からみた戦後教育史

行政からみた戦後教育史 菱村幸彦
菱村幸彦

【PROFILE】
菱村幸彦(ひしむらゆきひこ)
京都大学法学部卒。文部省に入り、教科書検定課長、高校教育課長、総務審議官、初等中等教育局長、国立教育研究所長、公立学校共済組合理事長、駒場東邦中・高等学校長などを歴任。
現在、国立教育政策研究所名誉所員、一般社団法人日本図書教材協会会長。
〔著書〕『やさしい教育法規の読み方』(教育開発研究所), 『はじめて学ぶ教育法規』(同上), 『教育の窓・法律の窓』(小学館), 『戦後高校教育史』(学事出版), 『私のリーダー論』(日本教育新聞社), 『私の校長学』(学事出版), 『戦後教育はなぜ紛糾したか』(教育開発研究所)など多数。

 

この連載は、ジアース教育新社刊「文部科学 教育通信」に2017年8月より連載されているシリーズを転載しています。

第5回

歴史教科書問題と「歴史認識」 <上>

中国と韓国は、靖国神社参拝問題や従軍慰安婦問題等について「歴史認識」を持ち出して、わが国の過去の責任を問う状況が続いている。その発端は、35年前の夏に起きた歴史教科書批判事件にある。

 

メディアの報道から始まった

昭和57年6月26日、全国紙(朝刊)が、前年度に行われた教科書検定の結果発表を取り上げ、文部省が教科書検定を強化して「戦前の復権」を図っているというニュースを一斉に流した。各社の記事は、その検定例として、高校歴史教科書で日本軍の「華北侵略」が「華北進出」に改められたという事例等を掲げた。

日本の報道を受けて、中国共産党機関紙『人民日報』が「日本文部省の検定によって、歴史の真相は歪曲され、侵略戦争を行った日本軍国 主義が美化されている」と論評した。

人民日報の論評は、直ちに日本の新聞で紹介された。社会党の土井たか子議員が衆院外務委員会(7月9日) で、この論評を取り上げて、「歴史を歪曲し、過去のあやまちを美化することは外交的にも問題がある。外務省は文部省にもの申すべきではないか」と追及した。

土井議員の国会質疑が報道されると、再び『人民日報』(7月21日付)は「教訓はしっかり記憶すべきだ」と題する論文を掲載し、南京大虐殺、華北侵略、満州事変の検定例を挙げて「日本文部省の歴史改ざんは、中国人民の大きな憤激を招かざるをえない」と非難した。これを機に中国における歴史教科書批判が激化した。

一方、中国の検定批判に連動した形で、韓国のメディアも日本の教科書検定を取り上げ、「過去の軍国主義、植民地主義を合理化し、歴史の美化するものだ」という批判を始めた。

中国と韓国で「歴史改ざん」批判が報道されると、その報道を日本のメディアが大きく取り上げ、その記事が中国と韓国にフィードバックして、さらに非難を増幅する結果となった。

このパターンは、いまも靖国神社参拝問題や従軍慰安婦問題で繰り返されている。毎年、閣僚の靖国神社参拝をめぐって、日本のメディアが大きく報道し、その報道に呼応して中国や韓国が非難を繰り返す。従軍慰安婦問題も、吉田清治が捏造した証言を朝日新聞が報道したことが発端となって騒ぎがエスカレートしたことは、周知のとおりだ。

 

中国・韓国政府の是正要求

当時、私は初等中等教育局審議官の職にあり、この問題の対応に当たっていた。時の経過とともに中国・韓国の歴史教科書批判が一層激しくなる状況をみて、この問題が今後どう展開するのかと懸念した。

検定結果発表からちょうど1か月後の7月26日に中国政府は、外交ルートで歴史教科書の是正を求めてきた。すなわち、中国外交部第一アジア局長が、華北侵略、満州事変、南京大虐殺の検定例を挙げて、「検定の過程において日本軍国主義が中国を侵略した歴史の事実に改ざんが行われたが、これは日中共同声明、日中友好条約の精神にもとるもので、中国政府は日本政府が教科書の誤りを正すよう切望する」と日本大使館に申し入れてきたのだ。

中国政府の申し入れを受けて、文部省は、中国大使館と韓国大使館の公使を招き、鈴木勲初等中等教育局長から教科書検定について事情説明を行った。鈴木局長は、①検定制度は、民間で著作された図書について教科書として適切がどうかを審議会が審査して行うもので、文部省が記述の仕方まで指示するものではないこと、②文部省としては教科書の記述が客観的かつ公正なものとなるよう最善の努力を払っており、中国政府の意見には謙虚に耳を傾けて検定に当たりたいこと等を説明した。

しかし、中国と韓国は「日本文部省の説明には同意できない。日本政府が検定済の教科書の誤りを早急に是正することを要求する」と再度申し入れてきた。

中国・韓国の是正要求で、事態は政治問題化した。当時を思い起こすと、早朝から与党の文教部会や外交部会で文部省の対応について説明が求められる、昼間は国会の文教委員会や外務委員会の集中審議で野党の追及を受ける、夜は外務省や官邸の打ち合わせと翌日の国会質問の準備に追われる、その合間にメディアの対応が迫られる――そんな日々の連続だった。

国会審議で野党は、なぜ文部省は教科書を修正しないのかと責め立てた。文部省は、アジア近隣諸国の批判には謙虚に耳を傾け、今後の検定がより適切に行われるよう努めるが、検定に誤りがあったわけではないから、教科書を修正する考えはないという態度を崩さなかった。

 - つづく - 

ジアース教育新社
新刊
購読のお申込