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行政からみた戦後教育史 菱村幸彦
菱村幸彦

【PROFILE】
菱村幸彦(ひしむらゆきひこ)
京都大学法学部卒。文部省に入り、教科書検定課長、高校教育課長、総務審議官、初等中等教育局長、国立教育研究所長、公立学校共済組合理事長、駒場東邦中・高等学校長などを歴任。
現在、国立教育政策研究所名誉所員、一般社団法人日本図書教材協会会長。
〔著書〕『やさしい教育法規の読み方』(教育開発研究所), 『はじめて学ぶ教育法規』(同上), 『教育の窓・法律の窓』(小学館), 『戦後高校教育史』(学事出版), 『私のリーダー論』(日本教育新聞社), 『私の校長学』(学事出版), 『戦後教育はなぜ紛糾したか』(教育開発研究所)など多数。

 

この連載は、ジアース教育新社刊「文部科学 教育通信」に2017年8月より連載されているシリーズを転載しています。

第14回

占領下の学制改革 <下>

窮乏下での6・3制の発足

教育使節団報告書を受けて、昭和21年8月に内閣総理大臣の諮問機関として、前述の教育家委員会を引き継ぐ形で教育刷新委員会が設置された。同委員会の建議により、その後、教育改革が次々と行われる。主な改革を挙げると、(1) 教育基本法の制定による教育理念の転換、(2) 学校教育法による単線型学校体系(6・3・3・4制)の整備、(3) 教育委員会制度による教育行政の地方分権化――などである。

建議を受けて、昭和22年に学校教育法が帝国議会(まだ旧憲法下の議会だった)において制定された。学校教育法は新しい学校制度の基本を定める法律であり、この法律によって、義務教育を9か年に延長する6・3制が発足することとなった。

法律で制度は決まったが、6・3制の実施は困難を極めた。文部省としては、学制改革は一定期間の準備期間を置いて、学校段階ごとに学年進行で順次実施すべきものと考え、そう主張した。しかし、GHQの民間情報教育局(CIE)はこれを認めず、早急に実施することを迫った。

当時の文部次官山崎匡輔氏は、「このような学制改革は、平時でも並たいていのことではない。まして、戦いに破れ、物心両面、窮乏した社会では、何としても即時にこれを実行することは無理であると言うことがわれわれの常識であった」(『日本近代教育百年史6』国立教育研究所)と語っている。

GHQとの厳しい折衝と苦悩にみちた決断で、新制中学校は昭和22年から、新制高等学校は昭和23年からスタートした。制度は発足したものの、敗戦後の疲弊の極にあった財政状況のなかでは、満足な予算は確保できず、市町村の当局者は、中学校の建築をめぐって筆舌に尽くしがたい困難に直面した。

折からドッジGHQ経済顧問が勧告した緊縮財政予算のあおりで、施設整備の補助金が全額カットされ、中学校の校舎建築の計画が頓挫するところが続出した。このため辞職に追い込まれた市町村長は200名を超え、責任を負って自殺する村長まで出た。そうした困難な状況の中で、なんとか施設の整備が進み、農山村や離島にいたるまで、全国津々浦々に中学校が設置されることとなった。

私は、新学制発足間もない昭和23年4月に飛騨高山の新制中学(当時は旧制中学と区別してこう呼んでいた)に入学した。私が入学した中学校は、自前の校舎がなく、市の公会堂に間借りしていた。大広間をベニヤで仕切った急ごしらえの教室で、隣のクラスの先生の声が聞こえてくる中の授業だった。

 

6・3制はアメリカの押しつけか

では、6・3制はアメリカから押しつけられたと見るべきか。海後宗臣教授(東大)は、6・3制は日本がなんらの拘束なしに決定したとはいえないが、それは日本が断行せねばならなかった改革であり、アメリカ教育使節団報告書は、そのきっかけに過ぎないと述べている(『海後宗臣著作集』9巻)。

戦前のわが国の学校体系は中等教育段階で複線型となっていた。義務教育は小学校尋常科6年までで、小学校6年を終えると二つの系統の学校にふり分けられた。選ばれたわずかの者が中等学校、高等学校、大学と進んで、社会の指導的な役割を果たすことが約束された。これに対して、残りの多数(約8割)の者は小学校高等科へ進んだが、これは上級学校には進学できない袋小路だった。これを民主的な教育制度に改める必要性はつとに指摘されていたことで、戦後にはじめて問題となったことではなく、6・3制をアメリカ側から押しつけられた改革とみるのは、皮相な考えだというのだ。

たしかに義務教育の延長は戦前からの課題だった。すでに昭和16年に教育審議会の答申に基づき、文部省は義務教育を国民学校高等科までの8か年と決定していたが、戦争のため延期せざるをえなかった。戦後の6・3制は、終戦前から予定されていた学制改革の延長線上にあったことは間違いない。

明治維新の学制発布の意義は、初等教育を国民に開放したことにある。それまで農工商や婦女子はかならずしも学校に入らなくてもよいとしていた観念を破り、「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」(『被仰出書』明治五年太政官布告)との理念のもとに、初等教育をすべての国民が受けるべきものとした。

これに対して、第2次大戦後の学制改革は、中等教育をすべての国民に開放したところに意義がある。6・3制は、それまでの中等教育の複線型のもつ特権化を排し、中学校、高等女学校、実業学校、国民学校高等科、青年学校を改めて、単線型の中学校と高等学校にし、国民的な教育機関に再編成した。

6・3制は、20世紀初めから世界的に広まった“secondary education for all”の理念に基づくものであった。6・3制の実施により、わが国においても中等教育の機会均等が実現したわけである。

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