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行政からみた戦後教育史 菱村幸彦
菱村幸彦

【PROFILE】
菱村幸彦(ひしむらゆきひこ)
京都大学法学部卒。文部省に入り、教科書検定課長、高校教育課長、総務審議官、初等中等教育局長、国立教育研究所長、公立学校共済組合理事長、駒場東邦中・高等学校長などを歴任。
現在、国立教育政策研究所名誉所員、一般社団法人日本図書教材協会会長。
〔著書〕『やさしい教育法規の読み方』(教育開発研究所), 『はじめて学ぶ教育法規』(同上), 『教育の窓・法律の窓』(小学館), 『戦後高校教育史』(学事出版), 『私のリーダー論』(日本教育新聞社), 『私の校長学』(学事出版), 『戦後教育はなぜ紛糾したか』(教育開発研究所)など多数。

 

この連載は、ジアース教育新社刊「文部科学 教育通信」に2017年8月より連載されているシリーズを転載しています。

第16回

教育基本法をめぐる論争的課題 <下>

繰り返された「見直し論」

その後、教育基本法の見直し論が繰り返し出てくる。最初に提唱したのは、天野貞祐文相である。昭和26年、天野文相は、教育勅語に代わる道徳基準として、「国民実践要領」構想を表明し、構想をめぐる国会の質疑で、「教育基本法といってみても、あれで以て足りるとは私は思わない」(昭和26年11月20日、参議院文教委員会)と答弁している。

天野文相の「国民実践要領」構想に対して、野党やマスコミはこぞって反対した。激しい反対にあって、天野文相は「国民実践要領」構想を取り下げた。

教育基本法の見直しを本格的に取り上げようとしたのは鳩山一郎内閣である。昭和31年、鳩山内閣は「臨時教育制度審議会法案」を国会に提出した。清瀬一郎文相は、法案審議において臨時教育制度審議会の討議課題の一つとして「教育基本法の見直し」を挙げたうえ、教育基本法第1条の目的には「日本のうるわしき伝統を維持する点が薄弱」であると答弁している(昭和31年2 月22日、衆議院内閣委員会)。このときは憲法調査会法案など重要法案が上程されており、臨時教育制度審議会法案は時間切れで廃案となって、審議会の設置には至らなかった。

昭和35年に荒木文相は、全国都道府県教育委員長・教育長合同総会で、「教育基本法の再検討」の必要性に言及した。これが国会で取り上げられ、荒木文相は、教育基本法の問題点の一つとして、「よき日本人づくり」が欠けていることを指摘し、「(子どもたちを)よりよき民族の一人として育てていきたい」と答弁している(昭和36年2 月15日、衆議院文教委員会)。荒木文相の見直し論に対して、日教組は激しく反発し、「教育基本法改悪反対闘争」を運動方針に掲げ、全国的に反対運動を展開した。

 

「期待される人間像」の趣旨

昭和41年、中央教育審議会は「後期中等教育の拡充整備について」答申し、その別記に「期待される人間像」を掲げた。「期待される人間像」は、特別委員会主査の高坂正顕学長(東京学芸大)が中心になってまとめたもので、その内容には「日本人に特に期待されもの」として、例えば、「個性を伸ばすこと」「自己を大切にすること」「家庭をいこいの場とすること」「仕事に打ち込むこと」などのほか、「社会規範を重んずること」「正しい愛国心をもつこと」「象徴に敬愛の念をもつこと」など全16項目が掲げられた。

高坂氏は、「期待される人間像」の趣旨について、「教育基本法はきわめて短いものであり、またきわめて抽象的なものである。日本の精神的風土に教育基本法を定着させるためには、あれだけでは不十分であろう。教育基本法を改めるのではなく、むしろ教育基本法を生かすための方策が考えられる必要がある」(高坂正顕『私見期待される人間像』筑摩書房)と述べている。「期待される人間像」についても、革新陣営から激しい批判が起こったことは言うまでもない。

その後、昭和59年に中曽根首相の主導で設置された臨時教育審議会と平成12年に小淵首相の下に設けられた教育改革国民会議でも教育基本法の改正が検討されたが、教育政策として具体化するには至らなかった。

最終的に教育基本法の改正が実現したのは、平成18年、第1次阿倍内閣の下であった。実に60年ぶりの改正である。保守・革新を問わず、リアクションが大きいと思っていたが、意外にも静かな改正に終わった。

 

最高裁が退けた国民教育的解釈

もう一つの論争は、主に教育裁判を通して争われた。戦後、勤評闘争、公務員スト、全国学力調査、教科書検定等をめぐって数多くの教育裁判が提訴された。法廷では教育基本法の「国民教育的解釈」が主張された。

国民教育的解釈とは、国家教育権説と国民教育権説を対比させ、教育権は国になく、国民にあるとする論である。この考えは、宗像誠哉教授( 東大) が教育基本法10条の解釈として、教育行政の任務を教育の外的事項( 施設設備等) に限定し、教育の内的事項( 教育課程等) に及ばないと唱えたことに始まる。その後、堀尾輝久教授( 東大) の公教育論等に影響を及ぼし、教育権は、国民(親権者)とその信託を受けた教師にあるとする「国民の教育権」論に発展し、教育裁判における原告側の理論的論拠として援用された。

しかし、国民教育的解釈論は、教育基本法を他の法律の上位に位置付けるなど、法令解釈の原理を無視するもので、正統な解釈論とはいえなかった。事実、この解釈は、最高裁において、学力テスト事件判決( 昭和51年5月21日) や教科書裁判判決( 昭和57年4月8日) 等で退けられた。

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