ホーム>行政からみた戦後教育史

行政からみた戦後教育史 菱村幸彦
菱村幸彦

【PROFILE】
菱村幸彦(ひしむらゆきひこ)
京都大学法学部卒。文部省に入り、教科書検定課長、高校教育課長、総務審議官、初等中等教育局長、国立教育研究所長、公立学校共済組合理事長、駒場東邦中・高等学校長などを歴任。
現在、国立教育政策研究所名誉所員、一般社団法人日本図書教材協会会長。
〔著書〕『やさしい教育法規の読み方』(教育開発研究所), 『はじめて学ぶ教育法規』(同上), 『教育の窓・法律の窓』(小学館), 『戦後高校教育史』(学事出版), 『私のリーダー論』(日本教育新聞社), 『私の校長学』(学事出版), 『戦後教育はなぜ紛糾したか』(教育開発研究所)など多数。

 

この連載は、ジアース教育新社刊「文部科学 教育通信」に2017年8月より連載されているシリーズを転載しています。

第19回

公選制教委から任命制教委へ <上>

第2次大戦後、教育制度で大きく変わったのは、学校制度(6・3制)と地方教育制度(教育委員会制)である。6・3制については、すでに取り上げたので、今回は教育委員会制度について見てみよう。

 

アメリカ直輸入の公選制教委

まず、戦前の地方教育制度はどうなっていたか。戦前は地方学事通則および小学校令(昭和16年からは国民学校令)によって、中央集権的な地方教育制度が定められていた。すなわち、教育は地方の事務でなく、国の事務とされ、文部省の方針が官選の地方長官(府県知事)を介して、市町村と学校に及んでいた。また、小学校の教員の身分は、官吏(判任官待遇)とされ、その任用は地方長官が行っていた。さらに、地方長官の下に視学が置かれ、域内の学校の指導監督に当たっていた。

戦後、この制度がGHQの指示で抜本的に変わる。昭和21年3月に出された米国教育使節団報告書は、「各都道府県に教育委員会または機関が設置され、それは政治的に独立し、一般民衆の投票の結果選出された代議的公民によって構成される」ことを勧告した。GHQは、この勧告に基づき、戦前の中央集権型の教育制度を改め、アメリカ式の地方分権型の公選制教育委員会の導入を要請した。

しかし、森戸辰男文相(元広島大学長)は、歴史も文化も国柄も違う日本にアメリカの教育委員会制度を直輸入してもなじまないと賛成しなかった。特に教育委員を選挙で選ぶ方式に強く反対し、自らGHQに出向いて、公選制では良識ある一般人が選ばれないおそれがあると述べ、教育委員を自治体の首長による任命制にするか、公正な推薦母体で候補者を選任し、その候補者の中から選挙で選ぶべきだと説いた。しかし、GHQの担当課長ニューゼント中佐は、文相の意見を聞き入れなかった(黒羽亮一『学校と社会の昭和史』)。日本政府の大臣の要請をGHQの担当課長が一蹴したことは、当時のGHQの権力がどれほど強かかを物語っている。

結局、GHQの要請どおり公選制を基本とする教育委員会法案が作成され、国会に上程された。法案は、当初、現職教員の立候補を禁止していたが、日教組の強い要求で、現職教員の立候補を認める国会修正が行われ、昭和23年7月に可決成立した。

昭和23年10月に第1回の教育委員選挙が、都道府県と5大市のほか、任意設置を決めた46市町村で実施された。この選挙では、現職教員と教員経験者の当選者が8割にのぼり、教員組合の委員長や書記長が多数選出された。

本来、公選制の教育委員会の趣旨は、レイマン・コントロール(素人支配)にある。しかし、選挙結果は、教育の専門家支配、それも教員組合支配の色彩を強く帯びたものとなり、レイマン・コントロールの趣旨にそぐわないものであった。

文部省は、第2次米国教育使節団に提出した報告書(昭和25年8月)で、公選制委員会の問題点として、①国民の教育委員に対する理解と関心が低く、棄権率が高いこと、②教員組合は組織力を利用して自己の代表者を委員に選出し、教育委員会をコントロールとする傾向がみられること、③選挙費用がかさみ、金のある野心家か組織的地盤のある者でなければ当選できない状況にあること等を記している。アメリカ産の公選制教育委員会は、日本の土壌には適合しなかった。

 - つづく - 

ジアース教育新社
新刊
購読のお申込