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行政からみた戦後教育史 菱村幸彦
菱村幸彦

【PROFILE】
菱村幸彦(ひしむらゆきひこ)
京都大学法学部卒。文部省に入り、教科書検定課長、高校教育課長、総務審議官、初等中等教育局長、国立教育研究所長、公立学校共済組合理事長、駒場東邦中・高等学校長などを歴任。
現在、国立教育政策研究所名誉所員、一般社団法人日本図書教材協会会長。
〔著書〕『やさしい教育法規の読み方』(教育開発研究所), 『はじめて学ぶ教育法規』(同上), 『教育の窓・法律の窓』(小学館), 『戦後高校教育史』(学事出版), 『私のリーダー論』(日本教育新聞社), 『私の校長学』(学事出版), 『戦後教育はなぜ紛糾したか』(教育開発研究所)など多数。

 

この連載は、ジアース教育新社刊「文部科学 教育通信」に2017年8月より連載されているシリーズを転載しています。

第20回

公選制教委から任命制教委へ <下>

教委と首長間のあつれき

発足当初、教育委員会は「教育知事」「教育市町村長」と言われた。教育に関する仕事は、知事や市町村長の指揮監督を受けることなく、教育委員会が独立して管理執行する制度だと、その理念が喧伝された。

しかし、わが国の教育委員会は、アメリカの教育委員会(board of education )とは基本的に違っていた。というのは、アメリカでは、学区(school district)ごとに教育委員会が置かれ、学区は、自ら教育税を徴収する権限をもつなど特別の自治体だからである。

わが国の教育委員会は、一般の自治体の中の一執行機関に過ぎない。その予算は自治体の一般財源でまかなわれ、教育委員会の独自の財源はない。教育委員会法は、一応、教育委員会に予算や条例の原案送付権を付与していたが、これは首長と対等の立場で行使できるものではなかった。予算編成や条例制定をめぐって、都道府県や市町村において首長部局と教委部局との間であつれきが起き、しばしば紛糾した。

このため、公選制の教育委員会発足後、数年を経ずして、教育委員会法の改正が課題となる。まず、昭和26年に政令改正諮問委員会は、教育委員の公選制を任命制に改めることを提言した。次いで、昭和28年に地方制度調査会は、予算原案送付権を廃止することを要請した。さらに、全国町村会は、教育委員会の存在自体に疑問を呈し、その廃止を求めた。

こうした要請を踏まえて、文部省は、清瀬一郎文相の指示の下に教育委員会法を全面改正する法案をまとめた。法案は、①教育委員会を全ての都道府県、市町村に置く、②委員の公選制を廃止し、教育委員は知事が議会の同意を得て任命する、③都道府県教育長は文部大臣の承認、市町村教育長は都道府県教委の承認を得る、④教育委員会の予算と条例原案の送付権を廃止する――等である。そして、昭和31年に「地方教育行政の組織及び運営に関する法律案」を国会に上程した。

 

乱闘国会で成立した地教行法

地方教育行政法案の審議は紛糾した。このときの国会には、地方教育行政法案とともに教科書法案が同時に上程されたが、日教組はこれらの両法案は「民主教育制度に対する根底からの破壊政策」として、激しい反対闘争を展開した。

これに呼応して、矢内原東大総長をはじめ、木下東学大学長、内田東工大学長、上原一橋大学長、大浜早大総長など都内10大学の学長が法案に対する反対声明を出し、マスコミで大きく取り上げられた。

国会では日教組出身議員が多く所属する社会党が徹底抗戦の構えをとった。参議院では、社会党の一部議員と秘書団が暴力を振るって衛視に重傷をおわせるという乱闘事件まで起きている。

国会審議の最終段階では、野党の実力による審議阻止を排除するため、参院議長が警視庁機動隊500人の出動を要請し、警官が議場周辺を警戒する中で、地方教育行政法が可決成立した。

地方教育行政法が制定された後も、日教組をはじめ革新陣営は、任命制教育委員会は、戦前教育への回帰をもくろむ「逆コース」政策だと反対運動を続けた。

地方教育行政法の制定が紛糾した背景には、当時の政治状況が影響していた。というのは、昭和30年(1955年)に左右両派の社会党が統一し、同時に保守政党も合同し、いわゆる55年体制が始まり、保守対革新の対立が先鋭化したからである。

地方教育行政法制定から10年目に私は島根県教育庁に出向した。教育委員は、住職、医師、弁護士、企業経営者など地域で人望の厚い人が県内地域からバランスをとって選ばれており、教育行政の中立性の確保に大きく寄与していることを実感した。

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