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行政からみた戦後教育史 菱村幸彦
菱村幸彦

【PROFILE】
菱村幸彦(ひしむらゆきひこ)
京都大学法学部卒。文部省に入り、教科書検定課長、高校教育課長、総務審議官、初等中等教育局長、国立教育研究所長、公立学校共済組合理事長、駒場東邦中・高等学校長などを歴任。
現在、国立教育政策研究所名誉所員、一般社団法人日本図書教材協会会長。
〔著書〕『やさしい教育法規の読み方』(教育開発研究所), 『はじめて学ぶ教育法規』(同上), 『教育の窓・法律の窓』(小学館), 『戦後高校教育史』(学事出版), 『私のリーダー論』(日本教育新聞社), 『私の校長学』(学事出版), 『戦後教育はなぜ紛糾したか』(教育開発研究所)など多数。

 

この連載は、ジアース教育新社刊「文部科学 教育通信」に2017年8月より連載されているシリーズを転載しています。

第21回

地方分権改革と教育委員会 <上>

地方教育行政法の制定により、教育委員会は、政党政治から切り離された中立的な教育行政機関として運営されることとなった。ただ、革新首長の下では、ともすると首長が自らの政治的意思を教育委員会に反映させようとしたり、教育委員会が首長の意向を忖度して、政治的に偏るケースも一部に見られた。

 

教育長未承認と準公選条例

昭和30年代から40年代にかけて、東西の主要自治体で革新知事が続いた。東京都の美濃部亮吉知事と京都府の蜷川虎三知事である。両知事はともにマルクス経済学者である。

美濃部都政下では、革新知事の威を借りた教員組合が校長の校務掌理権を阻害するような動きも見られたが、教育委員会自体は知事から距離を置いて自律性を保っていた。

一方、蜷川府政下では、28年に及ぶ長期政権を背景に、知事の教育委員会に対する影響力が強まった。例えば、京都府は、法律で定める教員の勤務評定も学校管理規則制定も行わなかった。アンチ文部省を標榜する知事の意向によるものだ。

それは教育長の執務姿勢にも影響した。その象徴的な事例が教育長未承認事件である。昭和42年末に新たに就任した教育長は、文部大臣の承認に際して、通常行われる初等中等教育局長との懇談を拒絶した。文部省との懇談の場で、承認の条件として、勤務評定の実施や学校管理規則の制定を迫られることを恐れたからだと言われている。この問題は国会でも取り上げられたが、結局、文部大臣の未承認のまま、教育長事務取扱として任期を終えた。

また、蜷川府政下では「15の春は泣かせない」というスローガンの下に高校の小学区制と総合選抜制が維持された。このため、伝統のある名門校が凡庸化し、府立高校から京都大学に合格する生徒数が激減して、市民の批判を浴びた。

これは直接、美濃部都政と関係はないけれど、東京都では教育委員の公選制が問題となった。昭和53年に東京の中野区議会で、教育委員の立候補者について区民投票を行い、その投票結果に基づいて教育委員を任命する、いわゆる準公選制条例が制定された。

文部省は、準公選制では政治的中立が損なわれるとして廃止を求めたが、中野区は、条例に基づき昭和56年から平成5年までの間に4回の教育委員の選挙を行った。しかし、投票率は、第1回の42.9%から投票ごとに低迷し、第4回は23.8%となった。となると、特定政党をバックとした候補者が有利となり、教育委員会に党派的対立が持ち込まれた。かつての公選制教委と同じ弊害が生じ、結局、平成7年に準公選制度は廃止された。

 - つづく - 

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