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行政からみた戦後教育史 菱村幸彦
菱村幸彦

【PROFILE】
菱村幸彦(ひしむらゆきひこ)
京都大学法学部卒。文部省に入り、教科書検定課長、高校教育課長、総務審議官、初等中等教育局長、国立教育研究所長、公立学校共済組合理事長、駒場東邦中・高等学校長などを歴任。
現在、国立教育政策研究所名誉所員、一般社団法人日本図書教材協会会長。
〔著書〕『やさしい教育法規の読み方』(教育開発研究所), 『はじめて学ぶ教育法規』(同上), 『教育の窓・法律の窓』(小学館), 『戦後高校教育史』(学事出版), 『私のリーダー論』(日本教育新聞社), 『私の校長学』(学事出版), 『戦後教育はなぜ紛糾したか』(教育開発研究所)など多数。

 

この連載は、ジアース教育新社刊「文部科学 教育通信」に2017年8月より連載されているシリーズを転載しています。

第23回

日教組と文部省の対立 <上>

戦後の教育史は、文部省と日教組の対立を抜きにしては語れない。昭和22年に結成された日教組は、「民主教育」を標榜し、文部省の教育政策について反対闘争を展開した。

 

指導要領をめぐる法律論争

まず、学習指導要領反対闘争である。文部省は昭和33年に占領下の教育を見直し、指導要領を全面改訂した。日教組は、改訂で道徳の時間を特設したことなどを、戦前教育の復活をもくろむ「逆コース」政策と批判し、全国的に反対運動を展開した。

それを理論面で支えたのが、宗像誠也教授(東大)が唱えた内的外的峻別論であった。宗像教授は、教育条件を内的事項(カリキュラム、教科書等)と外的事項(教員定数、施設設備等)に分け、教育行政の任務は、外的事項の整備に限られ、内的事項に介入するのは、教育基本法10条に違反すると論じた。

日教組は、この学説を指導要領拒否の論拠として、行政当局が実施する道徳教育講習会等の拒否闘争や教育課程の自主編成運動に援用した。これに対し、文部省は指導要領の法律論で対抗した。つまり、指導要領は、法令に基づく基準として法的拘束力がある。ゆえに教員は指導要領に従って教育課程を編成・実施する義務がある、と説いたのだ。

内的外的峻別論は、実定法を無視した特異な学説であり、オーソドックスな法律論ではない。事実、宗像学説は、学力調査事件の最高裁判決(昭和51年5月21日)で否定された。最高裁は、国の教育内容に関与する権能を認め、教育基本法10条は「教育の内容及び方法に関するものであっても、同条の禁止するところではない」旨を判示した。

 

教育現場を紛糾させた勤評闘争

これと前後して起きたのは勤評闘争である。教員の勤務評定の実施は、地方公務員法の制定時(昭和25年)から義務付けられていた。

ただ、地方公務員法の制定当初は、教員の人事管理体制が整っておらず、勤務評定は実施できなかった。しかし、昭和31年に地方教育行政法が制定され、教員の勤評を実施する体制が整った。で、文部省は法律に基づく勤務評定の実施を教育委員会に求めた。

地方教育行政法制定の翌年、愛媛県教委が、教員の昇給、昇格について勤評を参考にして行う方針を決定した。この方針に県教組は激しく反発した。県教組は、勤評の撤回を求めて、一斉職場集会、ハンスト、座り込みなど、激しい反対闘争を続けた。

日教組は、各教育委員会に対し勤評の撤廃を要求し、各学校では分会が校長に勤評不提出を強要するなど、全国の学校で紛争状態が生じた。三重県では、市の教育長が、勤評反対を叫ぶ教員の深夜にわたる「つるし上げ」を受け、自殺する事件も起きた。学校では勤務評定書の提出阻止を掲げて、校長のつるし上げや校長に対する無言闘争などが行われた。日教組は昭和33年9月に勤評反対のストライキを実施し、授業をボイコットした。

 - つづく - 

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