ホーム>行政からみた戦後教育史

行政からみた戦後教育史 菱村幸彦
菱村幸彦

【PROFILE】
菱村幸彦(ひしむらゆきひこ)
京都大学法学部卒。文部省に入り、教科書検定課長、高校教育課長、総務審議官、初等中等教育局長、国立教育研究所長、公立学校共済組合理事長、駒場東邦中・高等学校長などを歴任。
現在、国立教育政策研究所名誉所員、一般社団法人日本図書教材協会会長。
〔著書〕『やさしい教育法規の読み方』(教育開発研究所), 『はじめて学ぶ教育法規』(同上), 『教育の窓・法律の窓』(小学館), 『戦後高校教育史』(学事出版), 『私のリーダー論』(日本教育新聞社), 『私の校長学』(学事出版), 『戦後教育はなぜ紛糾したか』(教育開発研究所)など多数。

 

この連載は、ジアース教育新社刊「文部科学 教育通信」に2017年8月より連載されているシリーズを転載しています。

第24回

日教組と文部省の対立 <下>

職員会議をめぐる法律論争

指導要領や勤務評定をめぐる行政当局と日教組の対立抗争は、学校現場に持ち込まれ、校長と分会の間で紛糾した。その争いの場となったのが職員会議である。すなわち、学校分会が校長の校務掌理権を無視して、学校運営を多数決で押し切る事例が頻発したのだ。

なかには職員会議で校長に罵詈雑言を浴びせたり、つるし上げたりするような異常な事態も起きた。職員会議の主宰権が分会に握られ、校長が要請しても職員会議が開けない学校すらあった。

日教組は、職員会議を学校運営の最高議決機関と位置付けた。職員会議は、学校の重要事項を審議し、議決する最高の機関であるから、校長といえども、職員会議の決議には拘束されると主張した。これに対して、文部省は、職員会議の法的性質は校長の補助機関であるから、職員会議の決定は、校長の職務権限を超えることはできないとする解釈を示した。職員会議の法的性質をめぐる論争は、後述の文部省と日教組の和解まで続いた。

 

主任制の導入に反対

もう一つ、主任制の導入も紛糾した。学校は俗にナベブタと称される単層組織であるが、学校組織を機能的に運営するには、これでは困る。そこで、昭和49年に学校教育法を改正し、教頭職を法律に位置付け、教頭の管理職としてのポジションを確立した。しかし、学校における中間管理層は依然として手薄であった。

昭和46年に出された中教審答申(いわゆる四六答申) は、校務を分担するに必要な職制として、「教務主任、学年主任、教科主任、生徒指導主任などの管理上、指導上の職制を確立しなければならない」と提言した。

この提言を受けて、文部省は、昭和51年に学校教育法施行規則を改正し、教務主任、学年主任、保健主事、生徒指導主事等について、職務権限の規定を整備した。

主任制を導入したのは、かつて日教組講師を務めたこともある永井通雄文相だった。永井文相は、主任制は調和のとれた学校運営を目指し、学校における教育指導の充実を図るためのものという見解を発表し、主任は管理職でなく指導職であると強調した。

しかし、日教組は、主任制の導入は学校の 管理体制の強化を図るものであり、学校運営に 上命下服の命令体制を持ち込むものだとして、ストライキを含む反対闘争を展開した。さらに、反対の趣旨を国民に訴えるとして、主任手当の拠出運動を続けた。

このほか、文部省と日教組の対立したものに国旗国歌の問題があるが、この問題については、第9回で述べたので省略する。

 

対立から協調の時代へ

平成7年に村山富市政権下で日教組と文部省の和解が行われた。同年9月に行われた日教組の定期大会で「21世紀への転換点にあたり日教組には、まず教育界の対立を解き、教育改革へむかって社会的責任を果たすことが求められている」とした運動方針が決定され、戦後長らく続いた文部省と日教組との対立抗争がようやく解消される方向に向った。

このとき、日教組が路線変更した具体的内容は、(1)学習指導要領の基準性の容認、(2)行政当局の主催する現職研修への参加、(3)職員会議「議決機関論」の撤回、(4)主任制の容認、(5)日の丸・君が代反対闘争の棚上げ等であった。いずれも戦後教育において日教組が強く反対を唱えてきた施策である。

歴史にifはないというが、仮に戦後当初から日教組が文部省と手を携えて、共に力を尽くしていたら、我が国の教育はもっと発展充実していたのではないか。

ジアース教育新社
新刊
購読のお申込