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行政からみた戦後教育史 菱村幸彦
菱村幸彦

【PROFILE】
菱村幸彦(ひしむらゆきひこ)
京都大学法学部卒。文部省に入り、教科書検定課長、高校教育課長、総務審議官、初等中等教育局長、国立教育研究所長、公立学校共済組合理事長、駒場東邦中・高等学校長などを歴任。
現在、国立教育政策研究所名誉所員、一般社団法人日本図書教材協会会長。
〔著書〕『やさしい教育法規の読み方』(教育開発研究所), 『はじめて学ぶ教育法規』(同上), 『教育の窓・法律の窓』(小学館), 『戦後高校教育史』(学事出版), 『私のリーダー論』(日本教育新聞社), 『私の校長学』(学事出版), 『戦後教育はなぜ紛糾したか』(教育開発研究所)など多数。

 

この連載は、ジアース教育新社刊「文部科学 教育通信」に2017年8月より連載されているシリーズを転載しています。

第27回

吹き荒れた学園紛争 <上>

竹内洋名誉教授(京大)は「1970年代あたりまでに大学に入学した世代にとって、革新幻想はキャンパスの空気そのものだった」と書いている(『革新幻想の戦後史』)。私が大学に入学したのは1954年だが、社会主義こそ知的でヒューマニスティックという空気がキャンパスを支配していた。

 

2度の安保改定をめぐる闘争

1955年に共産党は6全協(第6回全国協議会)で武装闘争路線の放棄を決議したこともあって、私の在学時は、共産党の下部組織である民青(日本民主青年同盟)は、構内で政治活動を表に出すことなく、もっぱら「うたごえ運動」など柔軟路線で学生を集め、マルキシズムの浸透を図っていた。

学生運動が過激化したのは、日米安保条約の改定が政治課題となってからである。60年5月に安保条約が衆議院で強行裁決されるや、全学連( 全日本学生自治会総連合)は、国会包囲デモ、首相官邸突入、国会構内乱入など過激な運動を展開した。

私はすでに文部省に勤めており、オフィスの4階の窓から、眼下の虎ノ門交差点を労働組合の旗と並んで全学連が赤や青の旗をなびかせながら、連日、国会に向けて行進する姿を眺めていた。6月15日にデモ集団が国会に突入し、東大生の樺美智子嬢が圧死する事件が起きた。その日も学生らのデモ行進を見ていた記憶がある。

60年安保闘争は、一時、革命前夜を思わせる様相を呈した。しかし、安保条約の批准と同時に岸信介内閣が総辞職し、代わって「寛容と忍耐」をモットーとする池田勇人内閣が誕生すると学生運動は急激に退潮した。

その後、60年代半ばからベトナム戦争反対などの運動を通して、学生運動が盛り返す。そして70年の第2次安保改正を迎えるころから、学生運動は再び過激化した。例えば、67年に佐藤訪米阻止の羽田事件やエンタプライズ入港反対の佐世保事件など、全学連は過激な闘争を展開した。

68年に入り、東京大学で医学部の研修医問題に端を発した紛争が全学に広がり、無期限ストや安田講堂占拠などで大学の教育・研究機能はマヒした。また、日本大学では大学当局の使途不明金をめぐって、激しい大学紛争が起きるなど、学園紛争が全国の大学に広がった。その背景には、フランスの学生による5月革命をはじめ、アメリカ、イギリス等における世界的なスチューデント・パワーの高揚があった。

69年1月に全共闘(全学共闘会議)が占拠した東大の安田講堂を加藤一郎総長代行が8千人の機動隊を導入して、実力排除した。学生側が講堂の屋上から火炎瓶を投げ、機動隊が放水で対抗する映像は、社会に大きな衝撃を与えた。

 

代々木系と3派系の拮抗

68年から69年にかけて、大学紛争は熱病のように全国の大学に蔓延した。大学運営の民主化、学生の権利拡大、生活条件の改善などの要求を掲げて、全国各地の大学で全共闘が組織され、学園闘争が広がった。

68年の全国高校長会議で警察庁の吉田六郎調査課長が、「最近の学生運動について」と題する講演を行っている。吉田課長は、学生運動の最も大きな流れは日本共産党の指導下にあるいわゆる代々木系全学連であるが、これと拮抗して中核派、社学同諸派、社青同解放派など3派系全学連をはじめとする反代々木系各派が学生運動を指導していると解説している(『月刊高校教育』68年6月号)。

学生運動を共産党主導とみるのは「権力の側の単純発想」(望月宗明『戦後日本教育史料集成第9巻』)という意見もあるが、戦後の学生運動の実態は、党派の別はさておき、根本においてマルキシズムと深く結合していたことは否定できない。

加えて、学園紛争には中国の文化大革命の影響も大きかった。毛沢東の説く「造反有理」が学園紛争における暴力を正当化するスローガンとなったのだ。

当時、小泉信三学長(慶応大)や林健太郎文学部部長(東大)のように「いかなる場合も暴力は許さない」という信念をもって学園紛争に対峙した大学人もいたが、多くの大学人は、暴力を許さないという毅然とした態度に欠けていた。なかでも進歩的文化人と呼ばれる学者は、学生の暴力行為をあたかも正義の闘いであるかのように擁護し、煽り、事態をエスカレートさせた。

170時間に及ぶ軟禁と大衆団交にも屈せず、機動隊の救出の申し出に対し、「無用。只今学生を教育中」と答えた林健太郎文学部部長の毅然とした態度には、全共闘の学生も敬意を表したという。

 - つづく - 

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