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行政からみた戦後教育史 菱村幸彦
菱村幸彦

【PROFILE】
菱村幸彦(ひしむらゆきひこ)
京都大学法学部卒。文部省に入り、教科書検定課長、高校教育課長、総務審議官、初等中等教育局長、国立教育研究所長、公立学校共済組合理事長、駒場東邦中・高等学校長などを歴任。
現在、国立教育政策研究所名誉所員、一般社団法人日本図書教材協会会長。
〔著書〕『やさしい教育法規の読み方』(教育開発研究所), 『はじめて学ぶ教育法規』(同上), 『教育の窓・法律の窓』(小学館), 『戦後高校教育史』(学事出版), 『私のリーダー論』(日本教育新聞社), 『私の校長学』(学事出版), 『戦後教育はなぜ紛糾したか』(教育開発研究所)など多数。

 

この連載は、ジアース教育新社刊「文部科学 教育通信」に2017年8月より連載されているシリーズを転載しています。

第28回

吹き荒れた学園紛争 <下>

波は高校にも押し寄せた

大学紛争の波は、高校にも押し寄せ、各地の高校で学園紛争が頻発した。高校紛争は、ビラ配付、タテカン、無届け集会、校内デモ、集団交渉、校舎占拠など、どこでも似たような経過をたどった。いずれも大学紛争を模倣したものだ。

警察庁まとめによると、69年における高校生の学校封鎖は75件、警官の出動は12都道府県で29回、検挙生徒数は78人にのぼっている。前掲の吉田課長の講演では、代々木系も反代々木系も、大学生のみならず、高校生の組織化にも力を入れていたこと、とくに日共系の民青は、63年以来、高校のなかに班を基礎とした活動を展開する方針を決め、高校生への取り組みを強化していたことを指摘している。そして、学園紛争が激化した68年には全国の高校に1千をこえる高校班を組織し、そのメンバーとして約5千数百人を結集した事実を明らかにしている。

もちろん高校紛争は、こうした活動家の生徒のみが行ったわけではない。多くの高校紛争には一般生徒も多数参加している。高校生たちが紛争に加わっていった心情の底には、「受験体制につつまれた学校生活への不満があった」(宇野一『高校教育』78年5月臨増 号)という指摘は、そのとおりだろう。

 

大学管理法の制定で鎮静化

全国的に荒れ狂った大学紛争は、69年に制定された「大学の運営に関する臨時措置法」の施行によって鎮静化した。同法は、大学紛争を収拾するための大学の自主的な努力を支援することを主眼としていたが、紛争発生後9か月経過しても収拾困難な場合は、文部大臣が当該大学等の教育研究機能を停止できることや、教育研究機能の停止措置後3か月経過しても収拾困難な場合は、当該大学等の廃止・改組・縮小等の措置を講ずることができることなどを定めていた。同法は5年間の時限立法として制定されたが、その間、一度も適用されることはなかった。

学園紛争は鎮静化したが、分派による党派闘争が激化し、70年以降は「内ゲバ」として殺し合いを行なうまでに至った。その象徴的な事件が、71年に起きた連合赤軍による12名のリンチ殺人事件(山岳ベース事件)である。

さて、学園紛争時に学生生活を送った世代は、すでに10年前に定年を迎えている。往時を振り返るとき、様々な感慨があろう。

なぜ、あの時代に学園紛争が激発したのか。

その原因について、ベビーブームと進学率の上昇によるマスプロ教育への不満の爆発だとか、高度産業社会における人間疎外への欲求不満の表れとだか、ベトナム戦争に象徴される非人間的な国家権力への抗議の意思表示だなどと、さまざまな理由が挙げられている。が、その背後にはマルキシズムに根ざした革新幻想が影響していたことは間違いない。

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