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行政からみた戦後教育史 菱村幸彦
菱村幸彦

【PROFILE】
菱村幸彦(ひしむらゆきひこ)
京都大学法学部卒。文部省に入り、教科書検定課長、高校教育課長、総務審議官、初等中等教育局長、国立教育研究所長、公立学校共済組合理事長、駒場東邦中・高等学校長などを歴任。
現在、国立教育政策研究所名誉所員、一般社団法人日本図書教材協会会長。
〔著書〕『やさしい教育法規の読み方』(教育開発研究所), 『はじめて学ぶ教育法規』(同上), 『教育の窓・法律の窓』(小学館), 『戦後高校教育史』(学事出版), 『私のリーダー論』(日本教育新聞社), 『私の校長学』(学事出版), 『戦後教育はなぜ紛糾したか』(教育開発研究所)など多数。

 

この連載は、ジアース教育新社刊「文部科学 教育通信」に2017年8月より連載されているシリーズを転載しています。

第30回

学制改革を目指した審議会 <下>

教育の自由化を唱えた臨教審

46答申の後、学制改革を取り上げたのは臨時教育審議会である。臨教審は、世界的な教育改革の大きな流れの中で始まった。

当時、アメリカでは、連邦の教育長官の諮問機関で、学校教育の改革について審議が行われ、1983年に有名な報告書『危機に立 つ教育――教育改革への至上命令』が出され た。この報告書に基づき、中等教育を中心とする抜本的な改革が進められていた。

イギリスでは、1970年代から教育改革の論議が高まり、88年にサッチャー政権のもとで教育改革法が制定され、ナショナル・カリキュラムの制定、地方教育当局の権限の縮小、親の学校選択の拡大などの改革が実施に移された。

そのころ、わが国では校内暴力やいじめの続発が大きな社会問題となり、教育の荒廃に対する批判が噴出し、教育改革への要請が高まった。そうした流れの中で臨教審は設置されたのだ。

臨教審は、中曾根康弘首相の主導で始まった。中曽根首相の当初のねらいは、教育基本法の改正にあったと言われている。しかし、野党が臨時教育審議会設置法案の国会提出の条件として「教育基本法の精神にのっとり」という文言を法律に明記するよう強く要求した。国鉄民営化などの重要法案を抱えた政府は、この要求を呑まざるを得なかった。法律で教育基本法遵守の枠をはめられたため、臨教審は、教育基本法の改正に踏み込むことはできなかった。

臨教審では、「21世紀を展望した教育のあり方」を審議事項に掲げる第1部会を中心に、教育の自由化が唱えられ、その考え方によって学校教育を抜本的に改革しようとする動きが強まった。教育の自由化を提唱したのは、香山健一教授(学習院大)である。香山教授は、「今次改革で戦略的に重要なのは、教育行政改革による教育の自由化の断行」と主張し、①教育行政における各種規制の見直し、②教育分野への民間活力の導入、③学校の民営化・塾の合法化、④学校選択の自由の拡大と競争メカニズムの導入などを提唱した。

教育の自由化論は、経済学者フリードマンの提唱する新自由主義思想に基づくもので、行政的規制を緩和し、競争原理を導入することによって、教育界の停滞性と非能率性を打破しようとする考え方である。

一方、「初等中等教育の改革」を審議事項とする第3部会は、教育の自由化に批判的であった。とくに部会長の有田一寿氏(元参議院議員)は、経済用語で教育を語る自由化論に不信感を表明した。このため、臨教審内部では教育の自由化論をめぐって、第1部会と第3部会の間で激しい攻防が続いた。

この間、臨教審第1部会で高石邦男初等中等教育局長は、教育の自由化について、反対論を陳述した。反対の理由として、学校設置の自由化は、営利を目的とする学校の設立となり、学校教育の公共性や継続性を確保できないこと、学校の自由選択化は、児童生徒の特定校への集中を招き、義務教育段階の受験競争の激化を招くことなどを挙げた。

こうした文部省の見解や第3部会の反対もあって、答申では「教育の自由化」という言葉は消え、「個性重視の原則」という言葉となった。つまり、個性重視の原則により、教育の画一性、硬直性、閉鎖性、非国際性を打破すべきだというわけだ。

 

大山鳴動してねずみ1匹か

臨教審の審議は、昭和59年9月から昭和62年8月までの3か年間続いた。そして、最終答申(62年8月)では、初等中等教育に関して、①教育内容の改善、②教科書制度の改革、③教員の資質向上、④現職研修の体系化、⑤後期中等教育の構造の柔軟化(6年制中等学校と単位制高校など)、⑥就学前教育の振興および障害者教育の振興、⑦開かれた学校と管理・運営の確立などを提言した。

最終答申をまとめる段階で、有田第1部会長から、内々に学校制度改革について文部省が可能と考える案はないのかと問われ、当時、初中局審議官をしていた私は、6年制中等学校と単位制高校の案を提示した。戦後教育の総決算を掲げて始まった臨教審だったが、結局、制度改革は、6年制中等学校と単位制高校の創設の提言にとどまった。

戦後教育の最大の論争的課題である教育基本法の改正と6・3制の改革に踏み込めなかったことから、臨教審は「大山鳴動してねずみ一匹」などと皮肉られた。しかし、臨教審ほど国民の教育への関心を刺激し、国をあげて教育論争を展開した例は少ない。その意味では、臨教審は大きな成果をあげたといえる。さらに、臨教審における自由化論は、20年後、小泉政権下の構造改革政策の中でかなりの部分が現実の行政施策となった。

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