ホーム>教育深夜便 第4回 戦前・戦中の「教師像」を思い浮かべて

教育深夜便 川野邉 敏

-Profile-

川野邉 敏(かわのべ さとし)

昭和5年埼玉県生まれ。昭和28年東京外国語大学ロシア語科卒後、文部省入省。 昭和48年から国立教育研究所で国際関係・生涯学習関係の研究に従事。平成7年より常葉学園大学教育学部教授、平成16年より星槎大学教授。この間、東京大学学部および大学院、慶応大学・広島大学・筑波大学大学院等で非常勤講師。専門は比較教育・生涯学習。主な著書に『ソビエト教育の構造』(新読書社)、『ロシアの教育―過去と未来』(新読書社)、『子どものしつけ』(三一書房)、『現代に生きる教育思想』(ぎょうせい)、『世界の幼児教育』(日本らいぶらり)、『新任教師への手紙』(ぎょうせい)、『生涯学習論』(福村出版)、『教師論』(福村出版)など多数。

 
 

第4回

戦前・戦中の「教師像」を思い浮かべて

テレビや新聞に情報を頼っている高齢者には、近頃の「先生」はどうなってしまっているのか、不安を抱いてしまいそうです。セクハラ・いじめ対応の不手際・体罰などの問題が取り上げられ、画面では「申し訳ありません」と深々と頭を下げる、校長や教育長などの姿がクローズアップされるばかりです。我々には世の中の変化についていけないというのが正直なところです。戦前や戦中の先生の姿をつい思い浮かべてしまうのは、数少なくなっている後期高齢者だけなのかも知れませんが。

 

身近なところで「我が家」を例示しますと、8人兄弟(男4人・女4人=私は末っ子)で、そのうち4人は、本人あるいは連れ合いが教師を務めていました。戦前の庶民の暮らしの中で女子に中等以上の教育を願った親は、無償であった師範学校に進学させ、小学校の先生に就職させるのが一つの願いでした。長女はそうして教師になり、次女は父親の出身地である茨城の小学校の教師に嫁がせました。終戦後になりますが、私のすぐ上の兄は新制中学の教師に、4女の夫は高校の教師になり、生涯を終えています。なお、私の妻の父親も旧制中学の先生をしており、校長時(長崎工業)に原爆で命を落としました。

 

私の小学校時代(昭和17年頃まで)を思い起こしますと、先生も生徒も学校生活を楽しんでいたような気がします。5~6年次担任の吉田先生は国語の授業時間中に、宮本武蔵の話をしてくれ、放課後にもゴムボールでノックをしてくれました。歴史の仏教伝来の年代を(イチニイチニ=1212年)、京都遷都を(イヨイヨ=1454年)などと手振りよろしく覚えさせてくれました。ご存知のとおり、戦前は、紀元年号(前述年号はいずれも紀元年号)が西暦より660年長いことが誇りであり、昭和15年は紀元2600年記念で、私たち子どもも市民も日の丸の旗を振り,故郷熊谷の中心街を行進したものです。教師と親との関係について言えば、先生は「師」であり、子どもがいたずらしたり、いじめをしたり、けがなどしても、「うちの子どものことで、先生にご迷惑をおかけしました」と、親が学校に謝罪にくるのが当然でした。先生が病気で休まれた時には、私たち数人で先生の実家(秩父線の「はぐれ」)まで見舞いに行ったことなども、懐かしい思い出です。

 

だが、戦争が激しくなると「教師」も「生徒」もその波に押しつぶされていきました。先生方の服装はかなり自由でしたが、次第にカーキ色の軍服姿が主流になりました。各学校には配属将校(少尉か中尉)が置かれ、きりりとした軍服姿で教員・生徒の行動を見守っていたのです。校長先生も先生方の模範として振る舞うように考えられたのか、よく乗 馬姿で学校に現れ、校庭にいた我々生徒は、緊張しつつ敬礼で迎えることがしばしばのことでした。学校の入り口に置かれていた「奉安殿」の前で敬礼し、教室に向かい、一応授業は行われましたが、「教練」の時間が苦痛でした。匍匐訓練・藁人形めがけての突撃・重量運搬・「村田銃」という現役引退の重い銃を担いでの行軍など、苦い思い出になっています。終戦直前の1~2年間は手薄になった農家や工場への勤労動員で、教室での授業は全くおろそかになり、先生方も生徒の派遣先に動員されたのです。私は、熊谷から列車で桶川の「三井製機桶川工場」に動員され、研磨工として働きました。そして、終戦を迎えましたが、その前日の夜、熊谷は空襲に見舞われ、焼夷弾の落ちる音を耳にしながら消火に当たったのです。終戦の玉音放送を聞くこともなく、「終戦」を人づてに耳にし、茫然としていた一これが終戦時の記憶であり、私にとっての戦後のスタートでした。