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教育深夜便 川野邉 敏

-Profile-

川野邉 敏(かわのべ さとし)

昭和5年埼玉県生まれ。昭和28年東京外国語大学ロシア語科卒後、文部省入省。 昭和48年から国立教育研究所で国際関係・生涯学習関係の研究に従事。平成7年より常葉学園大学教育学部教授、平成16年より星槎大学教授。この間、東京大学学部および大学院、慶応大学・広島大学・筑波大学大学院等で非常勤講師。専門は比較教育・生涯学習。主な著書に『ソビエト教育の構造』(新読書社)、『ロシアの教育―過去と未来』(新読書社)、『子どものしつけ』(三一書房)、『現代に生きる教育思想』(ぎょうせい)、『世界の幼児教育』(日本らいぶらり)、『新任教師への手紙』(ぎょうせい)、『生涯学習論』(福村出版)、『教師論』(福村出版)など多数。

 
 

第5回

終戦直後の先生・生徒

前回、戦前・戦中のことを書きましたので、終戦直後のことにも触れておきたいと、欲張ってしまいました。戦後の10年間は日本人全てにとって、生きるために、生きぬくために非常に苦しい時代だったことは、お聞き及びのことと思います。私は終戦時が15齢であり、旧制中学校3年生でしたので、具体的な体験をした一人です。その日の夕食の準備のために、味噌、醤油、時にはお米などをやり取りする隣組の奥さん方の姿を、ごく当たり前のこととして見ていました。我が家でも、母親は買い出しに出かけ、我々子どもは、徒歩ではかなり遠い荒川堤の傍に借りた畑で、小麦やジャガイモなどを育て、飢えをしのいでいたのです。町の中心街を肥料としての人糞をリヤカーで運ぶ仕事は、さすがにきまり悪く、今でも記憶に残っています。

 

教育界も大変な時代であり、先生方の受難時代でした。6-3-3制の新制度が終戦2年後から突如導入されたのです。一部の先生方は食べることだけでなく、住む家さえ失っていました。母校熊谷中学校内には、用務員室の隣りの部屋と講堂わきの準備室に教師が各1家族(夫婦と子ども2人及び夫婦と子ども4人)、及び用務員室内に独身の教師1人が住み込んでいたといった具合です。そんな中で、新制中学・高校の新設や準備が行われたのです。特に中学校の新設は困難を極めました。各市町村は大混乱の状況であり、全国で170 の市町村長が辞職し、また、中学校長の自殺がしばしば報じられもしたのです。中学校の設置率は、発足当初15%という統計もありますが、あとは小学校校舎の借用、テントを張っての青空教室、二部授業などという環境の中での新教育の開始です。

 

戦争中の「国定教科書」のうち、軍国的内容は「墨塗り教科書」で消去され、「修身・歴史・地理」の科目が廃止され、「社会科」という新科目が登場しました。「教授中心」・「教え込み型」から「子ども主体」・「自己学習」が重視されることになり、教師はどう対応したらよいか戸惑っていました。「社会科」導入当初は、子どもたち自身で町の状況を訪問・調査する学習が盛んに行われたのです。私の次兄は戦後、市内の「職業安定所」に勤務していましたが、子どもたちが毎日のように訪れ、対応に大変だったという話をしていました。教育用語もカリキュラム・コミュニテイ・カウンセリング・PTAなどという英語が盛んに用いられ始めました。「ガイダンスを行うので集まるように」という町の教育委員会からの伝達があると、「ダンスの研修らしいが、どんな靴を持っていけばよいのか」と先生 方が戸惑ったという小話もささやかれた時代だったのです。

 

こんな混乱の中で、全く考えられないことですが、我々青少年は、何事もなかったかのように自由闊達に行動していたように思います。終戦時に空襲を受け、町全体は焼け跡の整理に追われていた故郷でしたが、9月の新学期には、勤労動員でちりぢりになっていたクラス全員が学校に集合したのです。授業がどう始まったのか記憶はありませんが、手拭いを丸めたボールを作ったり、ゴムボールでキャッチボールをしたりして、空襲のない青い空を見上げながら、動き回っていた姿が思い浮かびます。私自身も「6-3制、野球ばかりが強くなり」と揶揄された標語の通り、野球にのめりこみました。終戦の年の昭和20年秋にはクラブを作り、秩父農林との試合(軟式野球)を行い、読売新聞に「戦後初の中等野球」と報じられたのを覚えています。ユニホームもスパイクもなく、地下足袋をはき、長ズボンをまくってひざ下をゴムで止め、ストッキング風の恰好で試合を楽しんだのです。若者の力のすごさを改めて振り返り、教育・教師の重さを再認識しています。