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教育深夜便 川野邉 敏

-Profile-

川野邉 敏(かわのべ さとし)

昭和5年埼玉県生まれ。昭和28年東京外国語大学ロシア語科卒後、文部省入省。 昭和48年から国立教育研究所で国際関係・生涯学習関係の研究に従事。平成7年より常葉学園大学教育学部教授、平成16年より星槎大学教授。この間、東京大学学部および大学院、慶応大学・広島大学・筑波大学大学院等で非常勤講師。専門は比較教育・生涯学習。主な著書に『ソビエト教育の構造』(新読書社)、『ロシアの教育―過去と未来』(新読書社)、『子どものしつけ』(三一書房)、『現代に生きる教育思想』(ぎょうせい)、『世界の幼児教育』(日本らいぶらり)、『新任教師への手紙』(ぎょうせい)、『生涯学習論』(福村出版)、『教師論』(福村出版)など多数。

 
 

第6回

国際化への第一歩

小学校段階での英語教育が本格化しますが、そんなことを考えていますと、つい終戦直後の教育界の状況を思い浮かべてしまいます。昭和20 年代に教育の大改革がスタートし、教育基本法や学校教育法など、形の上での戦後教育は発足しましたが、教育体制全体を具体的に整備・運営することが大きな課題になっていました。その一つが国際化の問題です。ご存知のように日本は昭和26 年に独立を果たし、教育面ではユネスコに加入し、国際社会の一員になりましたが、残念ながら諸外国の教育の状況は殆ど分からなかったのです。そ こで文部省では、まず、アメリカの教育事情を調査することに着手し、私が勤務することになった調査局調査課の伊藤良二課長(1983 年逝去)をいち早く外国視察に出向させたのです。その一端は今でも思わず笑いがこみあげてきます。

 

「ニュヨークのホテルについてほっとして(誰にでもあることですね)、タオル一本持って廊下に出たのです(シャワーは室内にはなかった)。すると部屋の扉がパタンと閉まってしまって、外から開けられないのです(日本ではそんなことは考えられなかった)。びっくりしていると廊下を女性が歩いてくる足音がした。驚いて非常口の扉を空けて外に出たがその扉も閉まってしまった。やむなく非常階段を1階まで降りると幸い石炭を積んだトラックがあり、どうにか地上まで降りることができた。ところが、受付は石炭置場の反対側にあり、そこに行くには繁華街に面した表通りに出なければならない。そこで、思わずタオルを鉢巻に変えて、『ジャパニーズ・マラソン』と叫びながらホテルの受付に走った。受付では、『Key is in my room. I am out of door』と言って、鍵を渡してもらった」―という話です。伊藤課長いわく「難しいことは言えなくとも、知っている単語で言えば通じるものだ」と課員に説明したのです。ほかにも、「文部省がうまく伝わらず、文部大臣に間違えられた」「色物のビニールパンツで泳いだため、砂浜で待つ招待者の前で、浅瀬でも立ち上がれなかった?」など、失敗談は山ほどありました。こんな話をしても、今の子どもたちにはわかってもらえないかもしれませんが、閉鎖的な時代に長く置かれていた私たちは、ありうることだと、納得しながら英語や外国の状況を知らなければ、と思ったものです。

 

文部省は、もちろん、アメリカを含め、イギリス・フランス・西ドイツ・ソ連の5か国を先進教育国と捉え、それぞれの国の教育制度や授業科目・年間授業時間などを調査することが仕事の一つでした。しかし、一般職員は外国への調査旅行も資料の購入もままなりませんでした。職員の一人に、たまたまイギリスへの出張が認められたときには、新橋のホテルで家族・課員を含めた壮行会を開き、羽田まで見送りに行ったものです。私自身も、昭和43 年(1968 年)に、ソ連に出かけましたが、親戚の姉の嫁いだ寺で、親戚を集めて祝ってもらったことを思い出します。ともかく、日本の教育が少しでも早く、「先進諸国に追いつくこと」に懸命だったのです。

 

今の世の中は状況が一変しましたね。外国のホテルに宿泊しても戸惑うことはなく、一人で町を散策するのも当たり前のことになりました。生活は一変し、車・テレビ・各種家電製品・冷暖房などは日常使われていますが、これらはすべて昭和30年代後半からのことで、戦後しばらくは何もなかったのです。そんな時代を経て、今は、日本の生活・文化を平和国家のモデルの一つとして「諸外国に開放・発信する」時代が来ているのです。先生方には大変な重荷になると思いますが、終戦直後の苦しい時代の実態も思い浮かべながら、将来を担う子どもたちに「国際性」を身につけていただけるよう願っています。