ホーム>教育深夜便 第7回 戦後教育70年を振りかえって(一)

教育深夜便 川野邉 敏

-Profile-

川野邉 敏(かわのべ さとし)

昭和5年埼玉県生まれ。昭和28年東京外国語大学ロシア語科卒後、文部省入省。 昭和48年から国立教育研究所で国際関係・生涯学習関係の研究に従事。平成7年より常葉学園大学教育学部教授、平成16年より星槎大学教授。この間、東京大学学部および大学院、慶応大学・広島大学・筑波大学大学院等で非常勤講師。専門は比較教育・生涯学習。主な著書に『ソビエト教育の構造』(新読書社)、『ロシアの教育―過去と未来』(新読書社)、『子どものしつけ』(三一書房)、『現代に生きる教育思想』(ぎょうせい)、『世界の幼児教育』(日本らいぶらり)、『新任教師への手紙』(ぎょうせい)、『生涯学習論』(福村出版)、『教師論』(福村出版)など多数。

 
 

第7回

戦後教育70年を振りかえって(一)

戦後70年を過ぎるなかで、戦争の危険な足音を感じながら、戦後が「歴史」となっている現在。戦後期に学生時代を送り、その後も教育の道を歩んできた者の一人として、多少の参考になりはしないかと反芻しつつ、書いてみることにしました。すでに半世紀以上も前のことで、記憶に残るのは部分的なことですが、そんなこともあったのかと、読み流して頂ければ幸いです。

 

先ずは終戦直後のことです。これまでも触れてきましたが、私は「野球少年」でした。終戦時には15歳、旧制中学の3年生。人々は食料難、就職難にあえぎ、将来を見定めることができないまま、野球に「夢と希望」を託していたのです。復員した先輩たち、町の野球愛好者たちは連日、熊谷中学のグランドに集まっていました。そんな雰囲気の中で猛練習が行われ、私のキャプテン時代(昭和23年)には春の関東大会で優勝しましたが、夏の大会での甲子園出場はなりませんでした(当時は埼玉・千葉から1校出場)。翌24年夏、初めて埼玉から甲子園に出場し、26年には甲子園準優勝(平安高校に決勝戦で敗れる)の栄冠を掴んだのです。先輩コーチとしての2度の甲子園出場は、現在でも心に残る出来事でした。

 

高校卒業後は、新制大学(東京外国語大学)の1期生としてロシア語を学びました。戦後発足した大学の状況は現在とは全く違ったものでした。学生の構成ですが、旧満州からの引き上げ者、海軍兵学校や陸軍幼年学校卒業者、旧専門学校からの編入生、それに高校新卒者などが混在し、年齢は18歳から20歳代後半までまちまちでした。ロシア語の学力水準も格差が著しく、かなりの程度の語学力を持ち、ロシア文学の原本を読み始めている者から、全くの初心者といったところでした。校舎も仮校舎(上石神井、1年後に西ヶ原へ移転)で、廊下側の窓は障子張りで寒々とした雰囲気でした。学生に共通していたのは、誰もが貧しく、学費を稼ぐためのアルバイトに懸命だったということです。食を詰めて懸命に学んでいたU君は栄養失調で卒業年次に亡くなるという悲劇もありました。そんな時代でした。私自身は幸い郷里の新制中学校で「英語」の非常勤教師(週2日)を依頼されていたので、無事卒業できたということです。

 

大学卒業後は、文部省に入りました。調査局調査課という部署です。ここで成人前期を過ごし、その後教育研究所・大学教員を務め、現在に至っていますが、文部省時代の体験は貴重なものであり、その後の私の仕事の土台になりました。そこで、現在の先生方の仕事にも関係があると思われるものをまとめてみますと、一つは、「文章にこだわりを持つ」ということです。就職後まもない頃、報告書の一部を分担させられましたが、私の文章は、真っ赤に修正されました。「~は」か「~が」か、と言って30分ほども時間をかける先輩がおり、一つの文章が公にされた瞬間、取り返しがつかなくなることを教えてもらったのです。二つは、「仕事の合間に楽しみやゆとりを持つ」ということです。先生方にとって、文部省というと堅苦しい、融通のきかない職場を想像されるでしょうが、当時は省全体で局課対抗の運動会・演芸会などを開いており、また、局課ごとに宿泊旅行・芸能観賞会などを行っていて、楽しい職場でした。三つは、「多忙の中でも、自分の時間を見つける」という当たり前のことです。私は、帰宅後一定の時間を自身の勉強に割り当てる習慣を身につけました。昭和30年代前半の記録を見ると、『ソビエトの総合技術教育』(東洋館)、『15人の教師の記録』(刀江書院)、『モスクワ大学』(山本書店)などを共訳出版していました。当時の時代背景を思い浮かべながらも、青年期の時間の重みを改めて感じています。