ホーム>教育深夜便 第8回 昭和末期の「教育観」転換

教育深夜便 川野邉 敏

-Profile-

川野邉 敏(かわのべ さとし)

昭和5年埼玉県生まれ。昭和28年東京外国語大学ロシア語科卒後、文部省入省。 昭和48年から国立教育研究所で国際関係・生涯学習関係の研究に従事。平成7年より常葉学園大学教育学部教授、平成16年より星槎大学教授。この間、東京大学学部および大学院、慶応大学・広島大学・筑波大学大学院等で非常勤講師。専門は比較教育・生涯学習。主な著書に『ソビエト教育の構造』(新読書社)、『ロシアの教育―過去と未来』(新読書社)、『子どものしつけ』(三一書房)、『現代に生きる教育思想』(ぎょうせい)、『世界の幼児教育』(日本らいぶらり)、『新任教師への手紙』(ぎょうせい)、『生涯学習論』(福村出版)、『教師論』(福村出版)など多数。

 
 

第8回

昭和末期の「教育観」転換

前回(第7回)で、終戦直後の教育の状況と私がその後勤務した文部省で体験したことなどを書きましたが、私の文部省時代は20年に及びますので、詳細に述べるわけにはいきません。今、記憶に残っているのは、前半は「勤評・学テ反対闘争・大学紛争」(昭和30年代)などで、教職員組合との紛争が激しく、行政もその対応に多くのエネルギーを費やしていたことです。ご存じないかも知れませんが、当時、文部省内にも職員組合があり、昭和35年の安保闘争の時などは、私たち若手組合員も、国会前にデモ行進を行ったこともありました。そのような状態も昭和40年代後半には落ち着きを取り戻し、私が勤務していた調査局調査課では通常の業務(教育行財政調査・諸外国の教育事情調査など)が行われていたのですが、昭和40年代中期になると、文部行政の基本方針を決定する審議会の作業が加えられました。忘れ難いのが、昭和46年の中央教育審議会答申―いわゆる「4・6=ヨンロク答申」です。この時、私は課長補佐でしたが、文部省時代最後の仕事として思い出も深いのです。

 

審議会は、昭和42年7月から最終答申まで4年間の長期にわたり、時には毎週開催というハードなスケジュールで審議が行われました。諮問テーマは「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」という、学校教育全般に関わるものでしたので、私たち事務局職員も、委員の先生方の意見を察知して、詳細多量な調査資料を作成し、会議に提出したものです。なお、この時期は、ちょうど明治5年に「学制」が敷かれて100周年(昭和47年)を間近に控え、戦後20年余を経過していた時期ですので、一般の個別審議会以上に重要な意味を持ったものだったといえます。

 

審議の過程での議論も興味深いものでした。「教育制度は戦後6-3-3制で開始されたが、初等教育の年限を短縮できないか。イギリス・フランス・西ドイツでは4年または5年などであり、アメリカでも4―4―4制をとっている州もある。検討すべきではないか。」、「日本の年度開始は4月であるが、欧米のように9月に変更すべきではないか。」、「幼稚園と保育所が別個の行政機関で担当されているのはおかしい。幼・保一元化を実現すべきではないか。」、「幼稚園教員の待遇を小学校並みに引き上げるべきではないか。」など、いろいろな意見が出されました。事務局でも会議後に夜中まで討議内容等を吟味し、会議報告や次回の討議資料を整備したものです。

 

この答申の主要な項目や内容は、その後の「臨時教育審議会」(臨教審と略称、総理大臣直属の教育審議会、昭和59~61年)に引き継がれました。特に、注目しておきたいのは、4・6答申で「今後検討すべき課題」として挙げた「生涯教育」を、「生涯学習体系への移行」、21世紀教育の基本理念として取り上げたことです。戦前・戦後の教育を通じて「教育=学校教育」と限定して捉えられてきたわけですが、教育を生涯にわたる教育・学習過程と捉えて、その観点から学校教育を位置づけたことです。

 

臨教審答申の具体化が進められたのは、昭和末期から平成初期になります。行政組織が改革され、例えば、文部省内の組織が改組され(生涯学習局の新設)、都道府県・市区町村教育委員会の組織も改訂されました。かなり遅れはしましたが、「新教育基本法」(平成18年)には「生涯学習の基本理念(第3条)」が設けられ、「国民一人一人が、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会にあらゆる場所において、学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図らなければならない」と記述されています。現役の教師である皆さんはこの時代に提起された新しい「教育観」の先導者といえるのではないでしょうか。