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教育深夜便 川野邉 敏

-Profile-

川野邉 敏(かわのべ さとし)

昭和5年埼玉県生まれ。昭和28年東京外国語大学ロシア語科卒後、文部省入省。 昭和48年から国立教育研究所で国際関係・生涯学習関係の研究に従事。平成7年より常葉学園大学教育学部教授、平成16年より星槎大学教授。この間、東京大学学部および大学院、慶応大学・広島大学・筑波大学大学院等で非常勤講師。専門は比較教育・生涯学習。主な著書に『ソビエト教育の構造』(新読書社)、『ロシアの教育―過去と未来』(新読書社)、『子どものしつけ』(三一書房)、『現代に生きる教育思想』(ぎょうせい)、『世界の幼児教育』(日本らいぶらり)、『新任教師への手紙』(ぎょうせい)、『生涯学習論』(福村出版)、『教師論』(福村出版)など多数。

 
 

第15回

「体験」から学ぶこと

数少なくなってきた友人への返事の末尾に「お体を大切に」と書き終えてから、「からだ」は「体・身体・身」のどれが適当なのだろうかと迷いました。なぜ「唯識論」(本欄の第13回」)の5識(眼・耳・鼻・舌・身)の最後が「体」ではなく「身」となっているのだろうなどと、余計なことを考えてしまったからです。そして、5識というのは目で見、耳で聞き、舌で味わい、匂いを感じ、などと、感覚器官を述べているのであり、「身」は不快感や気持ち良さなどを感じる皮膚感覚を言っているのだと気づき、その全体を支えているのが「体」であり、「お体を大切に」の表現でよいのだと、納得した次第です。

 

なぜ、こんな些細なことにこだわったかという背景には、子どもの教育に携わる私たちが、5識の機能を十分認識して教育を行っているかという疑問があったからです。教育の現場では、どうしても「意識」(知覚・感情・意志・思考)の向上に集中するあまり、その前提となる5識の育成に手抜かりはないのかという懸念を持っていたからです。「意識」を豊かに発達させる、あるいは「意識」の質を高めるためには5識の充実(体験)が欠かせないという思いが、私自身の体験から身に染みていたからでもあります。

 

私には苦い経験があります。仕事の性格上、ソ連の教育事情について調査し、先進国の教育実態と比較しながら、我が国の戦後教育の改善充実に役立てる作業を担当していました。そのため、現地の教育雑誌や専門書を取り寄せ、それを元手に、原書を翻訳したり、報告書や論文を書いたりしていたのです。当時はソ連への渡航は困難な時代でした。そこで、相手国の教育の状況を私なりに「想像」しながら作業を進める以外に方法はありませんでした。やっと、現地を訪問することができたのは1968年(昭和43年)のことでした。

 

訪問先は、モスクワ・旧レニングラード・キエフの三大都市と地方の小都市としてタリンを選びましたが、驚きの連続でした。先ず驚いたのは「学校」が町の真ん中の住宅街の一角にあったことです。埼玉県北部の熊谷育ちの私の頭の中では、学校とは「広い敷地に柵がめぐらされ、その中央部分に校舎があり、正面入り口には車寄せがあり、玄関を入ると受け付けや事務室があり、職員室や校長室があり、必ず広いグランドがある~」といったイメージでした。タクシーの運転手が止めた「学校」は、3階建てのマンション風の建物の一角であり、そこに「第○○番学校」といった番号が記されていただけでした。部屋を案内され、「職員室=ロシア語ではウチーチェリスカヤ」という場所を覗いても、先生方の机はなく、ガランとした部屋の片隅にお茶飲み机が置いてあるだけでした。廊下は広く窓際には花が飾ってありました。立派だなと感心しましたが、グランドはどこにも見当たりません。正面入り口はおよそ玄関といった造りではなく、子どもや教職員等の履物や衣類を預かる「ガルジローブ」だけでした。このようなことを書き出せばきりがありませんが、「体験」の必要性を身に染みて感じた旅でした。

 

しかし、体験しただけで満足してはならないことも、痛感しています。昭和30年代後半から、日本人学校が各地に設置されるようになり、初期時代に設けられた西ドイツのデュッセルドルフの日本人学校の実態などを聞く機会がありました。教師も父兄も教養の豊かな人が住んでおり、ドイツ人が音や匂いに敏感だということは十分知っていたはずです。しかし、運動会で大きな音声で放送をしたり太鼓を叩いて行進したりして、地域住民から批難の声が上がったといいます。また、町に新鮮な魚が出ると、親同士が連絡しあい、「さんま」を焼いてひんしゅくを買ったという話も加わります。「体験や知識」だけでは、国際理解はできない、思いやりの心と態度が必要だ、などと思い知らされたものです。 それにも拘らず、できるだけ多くの「体験」を積ませ、その過程で、人や物に対する豊かな感性を培い、それを日常の行動に生かす態度を育てることが、「デジタル化時代」と言われる今日の状況の中で、特に必要なのではないかと、心を痛めているところです。