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教育深夜便 川野邉 敏

-Profile-

川野邉 敏(かわのべ さとし)

昭和5年埼玉県生まれ。昭和28年東京外国語大学ロシア語科卒後、文部省入省。 昭和48年から国立教育研究所で国際関係・生涯学習関係の研究に従事。平成7年より常葉学園大学教育学部教授、平成16年より星槎大学教授。この間、東京大学学部および大学院、慶応大学・広島大学・筑波大学大学院等で非常勤講師。専門は比較教育・生涯学習。主な著書に『ソビエト教育の構造』(新読書社)、『ロシアの教育―過去と未来』(新読書社)、『子どものしつけ』(三一書房)、『現代に生きる教育思想』(ぎょうせい)、『世界の幼児教育』(日本らいぶらり)、『新任教師への手紙』(ぎょうせい)、『生涯学習論』(福村出版)、『教師論』(福村出版)など多数。

 
 

第16回

「体験学習」の原点を探る

最近高齢者の間で読まれている佐藤愛子の『九十歳。何がめでたい』(小学館)に惹かれて、本屋で『血脈』(上・中・下巻、文春文庫)を手に取って、「人間の血の濃さ」に改めて驚いています。佐藤洽録とその子ハチローの兄弟や孫たちが、親の血を受けて女性関係・金遣い・喧嘩など、親と同じような問題を起こす自伝的小説です。特例であるといえましょうが、人の生まれ育ちによって、思いもよらない生き方が展開されていくのは、どうも間違いないようです。

 

先生方は30~40人の子どもたちを抱え、一人一人の子どもに、学習指導要領で示される目標に迫る教授・訓育を行うよう求められているのですから、そのご苦労・心労は図り知れないことでしょう。

 

そんな中で、「教育の本質」に近いようなことを書いている部分がありました。ハチローの息子の四郎が、親・兄弟と同じく、生まれながらにして仕事も夫婦関係もうまくいかない中で、「どうせ俺は佐藤家の血を受けついだ人間だ。すぐにあきてしまうし、何もできはしない。」という捨て鉢な言葉を吐くのを聞いて、彼の世話を依頼されていた先輩が、「人間の奥底にはきれいな泉が湧いているんだ。その上に土や石ころ、ミミズや昆虫の死骸などが積もって層をつくっているが、その層をかき分け、その層の下から泉を救い上げる力が君にはあるんだ。」と言った言葉です。

 

これに触発されただけではありませんが、大小の差はあるにしても、子どもたちの体中に張り巡らされた「血」の周囲に積み重ねられてきたゴミやチリを取り除いてやることが教育の大きな役割のような気がしました。そのために、「基礎的な知識・技能の習得」、「思考力・判断力・表現力・学習意欲の向上」に力を注いでいるではないかと言われるかもしれませんが、それだけでは解決できないのではないかと考えてしまったのです。

 

では、どうすべきなのか、明確な回答はありませんが、子どもの体の内部に働きかけ、心を揺り動かすためには、積み重ねられた“ゴミやチリ”に突き当たり、それを少しでも改善するような「体験学習」というものがあるのではないかと思いました。学習指導要領には「総合的な学習の時間」があり、国際理解・環境・福祉・情報などの領域からの「体験」を例示し、子どもたち自身が主体的にテーマを選定し、計画・実施するといった学習が進められていることでしょう。それ自体は素晴らしいことですが、しかしそれが体内に積み重ねられた“ゴミやチリ”の除去に対応できる内容になっているのか、不安な気持ちも残ります。

 

私は、人間の肉体や心に突き刺さるような、「汗と喜び」を前提とした「労働体験・美的体験」を念頭に置いています。旧ソ連・中国などでは、教育の目標を「知・徳・体・労働・美」の5項目とし、「労働と美」を重視した教育課程を編成していました。「知・徳・体」だけでなく、一人の人間として人生を生き抜く力(労働力)に、喜びや悲しみを共有し困難を克服する力(美育)を加え、それも含めて教育の目標に据えた考え方です。

 

この思想は、国の体制を超えて重要だと思いますが、残念ながら我が国では「労働」といった言葉さえ、あまり聞かなくなりました。第3次産業の普及や情報化の波に流され、「手や体を使った汗まみれの体験」や「人々と喜びや悲しみを共にし、生き抜く体験」などはあまり人気がないように思います。テレビで「田植え体験」などが取り上げられることもありますが、それは「珍しい事例」だからではないでしょうか。

 

もう、30年以上も前になりますが、人が生きて行くうえで必要な生活体験を小・中学校時代から子どもたちに積み重ねることができないかと感じ、書いたり、語ったりしてきたことがありますが、当時は学校内外の体制は十分整えられてはいませんでした。今は違います。家庭・地域との連携は学校教育の重要な柱として位置づけられています。『血脈』を読みながら、素朴で根源的な体験学習の復活を改めて思い起しているところです。