ホーム>教育深夜便 第21回 「見て、見つめて、見極める」という言葉

教育深夜便 川野邉 敏

-Profile-

川野邉 敏(かわのべ さとし)

昭和5年埼玉県生まれ。昭和28年東京外国語大学ロシア語科卒後、文部省入省。 昭和48年から国立教育研究所で国際関係・生涯学習関係の研究に従事。平成7年より常葉学園大学教育学部教授、平成16年より星槎大学教授。この間、東京大学学部および大学院、慶応大学・広島大学・筑波大学大学院等で非常勤講師。専門は比較教育・生涯学習。主な著書に『ソビエト教育の構造』(新読書社)、『ロシアの教育―過去と未来』(新読書社)、『子どものしつけ』(三一書房)、『現代に生きる教育思想』(ぎょうせい)、『世界の幼児教育』(日本らいぶらり)、『新任教師への手紙』(ぎょうせい)、『生涯学習論』(福村出版)、『教師論』(福村出版)など多数。

 
 

第21回

「見て、見つめて、見極める」という言葉

表題に書かせていただいたような言葉を昆虫画家の熊田千住慕が語っていたというテレビ(11月4日・NHK)を見て、最後の「見極める」という言葉に、画家のすさまじさを感じさせられました。彼は自分の住みなれた古民家の周辺を歩き、土中の虫やセミや蝶などをじっと眺め、家に籠ってその状態を描き続けたというのです。おそらく、現在に生きておられたら、「情報化社会」「IT社会」など眼中になく、私たち教育関係者が一面で戸惑っている「学校教育法」改定や「デジタル教科書」(「電磁的記録」と名称特定)の義務的導入などについても、全く念頭に置かず、事前の対象に全力を傾注して、昆虫の姿を見極めようと全精力を注いでいたに違いないと思うと、視聴者の一人である私の心を揺り動かすものがありました。

 

「お前なら、この映像から当面の教育の在り方をどう考えるか」という問いです。これは、特定の才能を持つ一部の例外の話であり、多くの子どもたちを前にして、そんな極端な指導などできるはずはないと切り捨て、忘れ去ればよい話かもしれません。しかし、彼の考え方や態度の一部でも、子どもたちに体験させられないか、と考えてしまいました。

 

私は、先ずは「見ること」、そして、できれば「見つめる」習慣を育てることはできないか、と昔を振り返ってみました。外山滋比古氏は「聴くことこそ、子どもの聡明の始まり」など、見るより聴くことを強調していましたが(第19回参照)、やはり「見ること」を重視することにこだわりたいと感じています。

 

既に本稿(第15回)でも触れたことですが、私は1953年に文部省に入省し、ソ連の教育事情を担当していましたが、当時の国際情勢から現地を訪れることができない時期が続いていたなか、初めてモスクワ・レニングラード・キエフ・クールスクを訪れることができたのは1968年のことでした。そこで、初めて学校の姿を知り、教師や子どもの姿を眺めて、「本物の校舎・目の前にいる先生や子どもたち」を見ることができたのです。それまでに、多くの資料や教育書を読み、自分なりに想像はしていましたが、初めて「見た」感動は、生涯忘れることができません。時代は変わり、体制は変わった現在でも、それは私の調査・研究の原点として生きているのです。

 

子どもたちを外国に連れて行けとは言えませんが、学校周辺の自然・環境・日常生活を「見せてやり」、その姿から歴史や現状・将来の姿などを語り掛け、教師の側から「見つめさせる」ことが必要ではないでしょうか。それと同時に「子どもたち自身」に「見つめる力」を養う方法がないものかと、初めてのソ連訪問を顧みながら、ちょっと唐突に思われるかもしれませんが、「演劇」の役割について、ふと思い起こしたのです。

 

私は、友人に誘われて「大阪府中学校演劇協会」が主催する「演劇夏季学校」に参加したことがあります。夏季休暇の時期に、大阪の中学校の演劇部の生徒を中心に呼びかけ、4日間の日程(会場=「国立曽爾青少年自然の家」)で、毎年開催している催しです。(平成30年で第38回)

 

そこでは、演劇の「基礎講座や発声練習」などを行いますが、10人ほどの単位でグループを作り、演劇のシナオリオ書きを学ばせ、最終日にはグループごとの10分間演劇を行わせるのが目玉になっています。子どもたちは、劇中の人物になり、振り当てられた人物としてどんな言葉を使い、どんな行動をとるかを学ぶのです。これは、自分を他人の立場から見つめなおす機会として、「見つめる」基礎訓練となるのではないでしょうか。

 

最後にもう一つ、「静かに自己を顧みる」時間が必要ではないかと思っています。子どもにとって多忙な1日、あるいは週の締めくくりに、古い言葉ですが「黙想の時間」を設けて、自らの言動や行為を振り返ることが必要な気がしています。