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教育深夜便 川野邉 敏

-Profile-

川野邉 敏(かわのべ さとし)

昭和5年埼玉県生まれ。昭和28年東京外国語大学ロシア語科卒後、文部省入省。 昭和48年から国立教育研究所で国際関係・生涯学習関係の研究に従事。平成7年より常葉学園大学教育学部教授、平成16年より星槎大学教授。この間、東京大学学部および大学院、慶応大学・広島大学・筑波大学大学院等で非常勤講師。専門は比較教育・生涯学習。主な著書に『ソビエト教育の構造』(新読書社)、『ロシアの教育―過去と未来』(新読書社)、『子どものしつけ』(三一書房)、『現代に生きる教育思想』(ぎょうせい)、『世界の幼児教育』(日本らいぶらり)、『新任教師への手紙』(ぎょうせい)、『生涯学習論』(福村出版)、『教師論』(福村出版)など多数。

 
 

第23回

「私の平成」を振り返りながら

「平成」も30年の「区切り」を終えて、今年は新元号を迎えます。テレビや新聞を通じて「平成」を振り返る記事が報じられると、なんとなくなく年を越してきた例年と一味違って、過ぎ去る平成をどう受け止め、どう過ごしてきたのか、思い返してみる必要があるのではないか、という気にかられてしまいます。

 

結論は、多くの人が語るように「災害多発の時代」ということになるでしょうか? 地震・津波・風水害・高潮・土砂崩れなどが次々に起こり、自然の脅威にさらされた日々が思い浮かびます。あるいは、「情報化・アニメ化の時代」などと位置付ける人もあるかもしれません。

 

では、「私の平成は」と考えてゆくと、災害に直面された方々への配慮や新しい時代に取り組もうとしている人々への期待を意識しながらも、高齢者のゆえか、「元号の枠」を越えて、私自身の青少年時代や仕事上の出来事と関連した思い出に突き当たっていくのです。ここでは、そんな思い浮かべたことの中から三つを挙げておきます。

 

一つは、既に体験された方々も少なくなってしまっている、昭和15年とその後の戦中・戦後の時代です。昭和15年は「紀元2600年記念の年」(西暦より660年長い歴史を持つ国)でした。故郷の熊谷では市民を上げて「旗行列」を行い、私たち小学生も国旗を振り、「紀元2600年の歌」を歌って行列に参加していました。その後の戦争と戦後の食糧難は、よく語られているので省きますが、その姿が思い出されてしまうのです。

 

そして二つは、「平成」に入る前後(1990年前後)からの10年間ほどで、ソ連が崩壊した前後のことです。私は文部省に入所した直後からソ連教育研究を担当し、この国の教育事情を紹介する仕事に従事してきましたが、欧米諸国と違い、現地訪問ができず、ロシア語文献による紹介に終始せざるを得ませんでした。

 

訪問可能になったのは1960年代以降で、その後、ソ連各地を訪問し、学校や教師や子どもたちと接し、資料だけでは見落としていた教育の実態を自分なりに自信を持って紹介できるようになったと思っていた矢先の1991年(平成3年)に、ソ連があっけなく崩壊してしまったのです。世の中の変化の速さに愕然とした思いを抱かされたのです(ソ連時代の教育の様子は『白樺の中の子どもたち』大月書店・1983年参照)。

 

なお、ソ連崩壊直後にもサハリンやモスクワを訪問しましたが、現地の状況は大変なものでした。極寒の路上でたばこを売っている老女の姿や大学の宿舎内での状況(温水が出ず、盗難事件さえ数回起こる)なども体験しました。そんなとき、終戦前後の日本の悲惨な状況と重ね合わせて、複雑な思いにかられたのでした。

 

そんな思いにふけりながら、三つ目は……昔の生徒たちとの会合が思い浮かびます。本稿のどこかで触れたこともあった筈ですが、戦後の教育改革の中で、新制中学(現在の中学校)が誕生し、「英語」が必修化されたのです。私は、学生時代であったにも関わらず、郷里近辺の中学校で3年間ほど非常勤講師を務めたことがあり、その時の生徒との触れ合いが忘れられず、その体験が私を教育への道に進めさせたのです。

 

今でも、当時の子どもたち=現在81歳になる=とは毎年あるいは2年に1回程度、会合を持って旧交を温めています。彼らと出会うたびに、前号(第22回)に書いたスホムリンスキーの言葉のうち「自分の心の中の最初の動きを消してはならない。それはもっとも高潔なものだからである。心の最初の動きの命ずるままに行動しなさい」を思い出します。

 

先生方はどのような初任時代や青年期を過ごされたのか知るよしもありませんが、世の変化にも泰然として、教師としての最初の「感動=心の動き」を「継続・発展」させて頂きたいと念じた新春でした。