ホーム>教育深夜便 第29回 「出会いと別れ」の自己体験

教育深夜便 川野邉 敏

-Profile-

川野邉 敏(かわのべ さとし)

昭和5年埼玉県生まれ。昭和28年東京外国語大学ロシア語科卒後、文部省入省。 昭和48年から国立教育研究所で国際関係・生涯学習関係の研究に従事。平成7年より常葉学園大学教育学部教授、平成16年より星槎大学教授。この間、東京大学学部および大学院、慶応大学・広島大学・筑波大学大学院等で非常勤講師。専門は比較教育・生涯学習。主な著書に『ソビエト教育の構造』(新読書社)、『ロシアの教育―過去と未来』(新読書社)、『子どものしつけ』(三一書房)、『現代に生きる教育思想』(ぎょうせい)、『世界の幼児教育』(日本らいぶらり)、『新任教師への手紙』(ぎょうせい)、『生涯学習論』(福村出版)、『教師論』(福村出版)など多数。

 
 

第29回

「出会いと別れ」の自己体験

これまで、私自身の教育への思いや、先生方へのお願いなどを書いてきましたが、今回は、私自身の「妻との出会いと別れ」について、紙面を使わせてもらいたいと思います。戦前、戦中及び戦後の生活や教育を受けてきた者の一人として、参考になればと感じたからです。

 

長年生活を共にした妻は令和元年6月22日、91歳の人生を閉じました。彼女の生涯は、戦争と直接関係していました。父親は長崎の工業学校(現・長崎工業高校)の校長でしたが、8月9日の原爆で命を落としました。彼女は結核を患っていたため、原爆の直接の被害を受けませんでしたが、残された家族3人(母・兄)は、生活再建のため、東京の下赤塚(板橋区)に小さな家を建て、住み込むことになりました。兄は海軍兵学校卒業で、終戦時には北海道におり、食べるためにいくつかの企業に就職し、食べ繋ぐ生活だったようです。

 

妻は東京に転居して間もなく、胸郭成形手術を行い(戦中の中野軍医学校?)右胸の肋骨を7本切断し、その後、何とか回復して、私が勤める文部省の調査課に臨時職員として働くようになりました(結核は当時死の病と言われ、昭和30年頃アメリカから新薬=パス・ストレプトマイシンなどが手に入るようになってからは、手術なしで回復できるようになった)。彼女の手術は昭和23~4年頃でした。

 

人生は何とも不思議なものです。亡くなった父親が戦前愛知県の中学校の教師(後校長)をしていた時の教え子が私の上司の課長だったのです(戦前は、中学校長は全国区で移動)。母親はそれを頼りに文部省を訪ね、その結果、体の癒えた彼女が入所してきたというわけです。

 

その後の詳細は避けますが、今日まで62年間の長い人生を共にすることができました。そんな中で改めて、人生の不思議、「戦争」の影響や、災害による不時の別れ、暴力・いじめなどの日常の行為などを見ていると、「別れざるを得ない人々」の姿を重ねてみてしまうのです。

 

私は、戦争中は熊谷に住んでいて、8月15日に空襲を受け、幸い家の焼失を免れましたが、一軒先の家まで燃え移り、友人数人も町の中央を流れている「星川」で命を落としました。私は、偶然というか、何か知らない自然の力で命を拾われたのです。誰もがそのような経験があるのではないでしょうか。

 

「出会いの喜び」と共に誰にも「別れの悲しみ」が付随しています。誰でも頭では理解し、認識していても、「考えても仕方がないこと」として、捨て去ってしまっているしかないのでしょう。それを自ら消し去っているのが、生きているということでもあり、「人間」だともいえるのでしょう。

 

元気溌剌で、夢と希望を抱いて学校に通っている子どもたちを眺めながら、「別れ」の話をするのは、先生方にとってつらいことでしょう。しかし、ただ「戦争」は絶対避けなければならない、人災や暴力・いじめは罪悪だとことだと語っても、子どもは、その時その時の状況で、そんなことは意に介せず、その場その場の行動に走ってしまいます。

 

では、具体的な対策はと問われても、不幸に出合っても前向きに生きる勇気と力、苦しんでいる友達にできる限り寄り添い、優しい心をもって、援助・協力を惜しまない態度を求める以外にないのかもしれません。そのような「生きる人間」を、変化の多い今日の状況の中でも、機会を捉えて、指導していく以外に方法がない「指導の原則」や「教育の役割の重さ」を、長い人生を与えられた人間の一人として改めて感じています。